本に、空間がひらいている。
オーボエみたいに暖かみのある太い声。その声で語られる少年時代。
冒頭を飾る写真にまず、その空間があらわれる。「昭和35年、1歳、母方の実家で」。畳敷き、衣装ダンス、あぐらと正座の宴会。左から、「オレ」の叔父さん、叔父さん、近所のお京姉さん、叔母さん、手前にお母さんと一歳の「オレ」。カメラを構えたお父さんのほうを誰ひとり見ていない。それぞれ、ばらばらなほうを向いているけれども、漫然と向いているのでなくて、ある意志をもって視線を向けている。二番目の叔父さんはギターを奏で、お京姉さんはマイクを握っている。絶妙にフレームから切れているが、一歳の「オレ」も、おかあさんに見守られながら、おそらく、なにか音の出るものを触っている。
被写体と撮影者、七人のあいだにある絶妙な距離。ひらいた空間。そこに、音楽が充満している。
そして小学校時代。うた、テレビ、友達、初恋。横浜から福島への引越。「オレ」「オレ」と一人称でつづられていく、暖かな語りを読んでいくうち、語り手と、語られている少年とのあいだに、さっきの撮影者と被写体のような、たしかな距離があるのに気づく。五十年前をふりかえって書かれている、という事情だけでない。この語り手が語り出すと、そこに必ず生じてしまう、といった類いの、絶対的な広がり、空間がそこにある。
オーボエのような声の「オレ」。福島で悩み、ぶつかり、笑う「オレ」。読者は最初から気づかされているのだ。そのあいだにひらいた空間には、もちろん、音楽があると。
「オレ」がなにかを思いだし、語りだす、そのとき、音楽が伴わないことがない。ある曲、あるフレーズ、ある音とともに、「オレ」のあらゆる記憶は結びつき、たがいに響きあいを起こしている。
「悲しき六十才」「ウルトラQ」「廃墟の鳩」、はじめての自作シンセサイザー、友人のロックバンド。高校生になってのめりこむジャズ、ノイズ、現代音楽。
それぞれ別のタイトルがついているが、同じ空間で響きあうことで、これらの音楽は分かちがたく結びついている。「オレ」と「オレ」にひらいた場所で、ジェフ・ベックと阿部薫は共演し、坂本九と山崎比呂志はセッションしている。そんな奇跡が、じつは、誰の記憶のなかでも起こりうるのだと、「オレ」たちはその、重なりあったり離れあったりするからだで、教えてくれているのだ。
音楽は、時間とともにある。ただそれは、記憶のように伸び縮みする時間。時計の縛りを離れ、ゼロと無限のあいだを自在に行き来する時間だ。語り手の「オレ」と語られている「オレ」は、じゃんけんのように、せえのおで、と楽曲を、レコードを、CDを、もしくは楽器を、ふたりのあいだにひらいた豊かな空間にさしだす。そこに、なつかしいけれども新しい、なじみ深いけどはじめて耳にする、音がうまれ、音楽が発火する。
読んでいる僕たちは、一ページごとにその場に立ちあう。ページを繰っていきながら読者は、「オレ」たちのセッションに一喜一憂する。そしていつのまにかもうひとりの「オレ」になって、自分の音を、語り手の音とぶつけ合わせている。音楽家の豊かな声にみちびかれ、そのよく響くからだ、空間のなかへはいっていく。山下洋輔、ジョン・ケージらの著作と同じく、大友良英のことばを読むことは、合奏に参加することにほかならない。
『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』は、高校時代までで終わっている。大学以降の続編は、『僕はこんな音楽をやりはじめた』になるんだろうか。さらに三作目は『僕はいまこんな音楽がおもしろい』。とはいえ、この一作目に、その後のすべてが入っている。冒頭の写真が、一歳の「オレ」の将来を、余さず、ものの見事に予言していたとおりに。