令和元年の秋九月、所用で金沢市に滞在したおりに、かほく市に足をのばして西田幾多郎記念哲学館を訪ねたことがある。西田の書簡、書、原稿、諸種の辞令などが大量に集められて見どころの多い充実した展示が構成されている中に、「哲学へのいざない」という表題の展示室があり、西田のさまざまな著作の抜粋が白紙に写されて大きく掲げられていた。ひとつひとつ見ていくと、
哲学は、一般的に「実在とはいかなるものか」などという抽象的な問題から起こるのではない。哲学の問題は、我々の深い生命の自覚から起こるのである。
という言葉が目に留まった。これは『哲学論文集 第六』から引いたのである。また、
哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。
という言葉もあった。出典は『無の自覚的限定』である。哲学の泉は人生そのものであると西田は言いたいのである。どちらも感銘が深く、しばらく見つめながら反芻していると、数学を語る岡潔の言葉が回想された。西田の言葉に連想を誘われたのである。
岡は、数学とはどういうものかと問うて、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術のひとつであると、おおかたの意表に出る不思議な言葉で応じた数学者である。数学は一般的に「数とは何か」などという抽象的な問いから起こるのではない。論理も計算も数学の本体ではなく、数学の泉は情緒である。情緒は心と同じで、心の表現は人生そのものの映像であると岡は言いたいのである。
岡は和歌山県粉河中学から京都の第三高等学校を経て京都帝国大学に進み、フランスに留学してガストン・ジュリアのもとで学び、多変数解析関数論という曠野のような未踏の領域に生涯の課題をみいだして帰国した。広島文理科大学に奉職したが、昭和十一年六月、身心の平衡を失って長期に及ぶ入院を余儀なくされる事態に直面した。フランスで知った親友中谷治宇二郎(考古学者)の死に際会し、連作「多変数解析関数について」の第一論文が完成したのもこの年である。それから二年がすぎて、昭和十三年六月、職を辞して帰郷した。岡の人生を通じてもっとも謎めいているのはこの時期の岡の心情である。四半世紀の昔、岡の評伝の執筆を志し、八年に及ぶ調査研究を経てようやく二冊の著作『星の章』と『花の章』に結実したが、そのおりにもっとも神秘的な印象を受けたのは、岡の帰郷という一事の諸相であった。岡をめぐって生起した当時のさまざまな状況が判明し、この出来事の根底にあるものの姿が明るみに出されたときの衝撃は真に大きかった。西田の言葉を借りるなら、岡の数学研究の動機は深い人生の悲哀であり、深い生命の自覚に根ざしている。数学と人生が分かち難く結ばれている様相が明らかになったとき、岡の学問に遍在する神秘感の由来がありありと感知され、岡の評伝はこれで成立するという確信が得られたのである。
広島を離れた岡は郷里の和歌山県紀見村(現、橋本市)でひとり数学研究に身心を投じた。身なりをかまわずに村を歩き、ときには道端にしゃがみこんで木の枝で地面に数式を書き綴る姿には鬼気の迫るものがあり、同郷の人びとは畏敬の念を抱いたという。浄土宗門の山崎弁栄上人が提唱した光明主義のお念仏に心を寄せ、上州群馬県の薄幸の女流歌人江口きちの遺歌集『武尊の麓』に共鳴する日々の中から、さながら紀見村の野の花を摘むように十篇の論文が生れ、多変数解析関数論の数々の難問がひとつまたひとつと解決されていった。夢のような人生を生きた人であった。
往年の評伝が、このほど装いをあらためて筑摩書房の文庫に入ることになった。岡を知るよすがとなり、新たな読者の輪が広がってほしいと望んでいる。