ちくまプリマー新書

そもそも「教育」とは何か? 3つのポイント「意図的に」「他者」「組織化」

『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』より本文を一部公開

教育はしばしば失敗するし、学校は本質的に退屈である。にもかかわらず、学校や教育は世界を広げてくれる――。教育の目的から、学校の役割、道徳教育やAI社会まで、広い視点と多様な角度からとらえなおす一冊『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』(ちくまプリマー新書)より、内容を一部公開します。そもそも「教育」とは何なのでしょうか?

教育の不確実性

 もう一つ、他者という点で重要なのは、教育する側にいる自分が望ましいとか必要だとか思うものを、他者、つまり被教育者がそのように思ってくれるとは限らないということです。私がシャガールの絵に感動して、「これを見せて感動させよう」と考えて子どもに見せたとしても、「ゲッ、下手くそな絵」と言われてしまうかもしれません。

 他者が存在するということは、教育関係とは、ある人と他者との関係だということになります。その場合、教育者の意図とは別の状態にあるのが、被教育者です。教師が何かを教えたいと思っていても、生徒がそれを学びたいと思っているとはかぎらないのです。教育には、ここに根本的な不確実性が存在しています。

 実際、教育を受ける側は、常にやり過ごしや離脱の自由を持っています。私が高校生のとき、クラスのS君という友だちが、日本史の担当のN先生の授業が大嫌いで、時間中はいつもずっと窓の外を見ていました。ある日とうとう、N先生が怒り出してS君に何か言ったのですが、S君の方は「あんたの授業が下手くそだから、聞く気にならないんだよ!」と言い返して、S君の圧勝になりました。新米のN先生の授業は、私の目から見ても下手でした。

 まあ、そこまで露骨でなくても、教師の方をぼうっと見ながら、「今日のお昼ご飯、何食べよう」とか、「夜のテレビは何がいいかな」と考えたりすることは、皆さんにもよくあることだと思います。そんなときは、だんだん眠くなりますね。教科書を見ているふりをして、私もときどき居眠りしました。

 私が教えている学生でよく見かけるのは、私の講義の話を軽く聞き流しておいて、「大事そうなことが出てきたら、そこはちゃんと聞こう」というふうな姿勢の学生です。「省エネモード型」といってもいいかもしれません。でも、「大事そうなこと」がわからないまま、最初から最後まで「省エネ」しっぱなし、というふうな感じの学生もいます。まあ、そういう学生の答案は、「八行以内で論じなさい」と出題しておいても一行ぐらいしか書けないから、教員の私のほうも、「省エネ」で採点ができるんですけどね。

 つまり、いくら教育をしても、本人がその気にならないと、学習は進みません。教育に関しては、常に被教育者の動機づけ問題を抱え続けます。これが教育の難題になり続けています。どこかの学習塾が掲げている「やる気スイッチ」というフレーズは秀逸です。生徒の側の「やる気スイッチ」が入らないと、教育はなかなかうまくいきません。ただし、そんなスイッチが見つからないことが多いからこそ、教師はいつも苦労しているのですが。

 教育の定義の三つ目のポイントは、被教育者の学習を「組織化しようとすること」です。もって回った言い方になっていますが、「しようとする」なのです。だから、失敗するかもしれません。でも、成功するか失敗するかにかかわらず、それは教育だと考えます。教育哲学者のブレツィンカは、医者が患者を治療する、というときの「治療する」というのと同じだと論じています(ブレツィンカ、ヴォルフガング 二〇〇九『教育目標・教育手段・教育成果――教育科学のシステム化――』小笠原道雄・坂越正樹監訳、玉川大学出版部、二〇一-二〇二頁)。どういうことかというと、「治療する」と「治癒する」とは違う。望ましい結果が得られるとは限らないわけです。教育もそれと同じで、「教育する」「教える」「教授する」というのと、その成果が実現するというのとは違うわけです。

 失敗したら教育ではないのではなく、失敗したとしても、それは教育です。教育としてやったのに十分な成果が挙がらなかったということは、いつもあります。何十年も大学の教員をしてきた私でも、失敗は今でもしょっちゅうあります。「面白い話をしたつもりなのに、今日はたくさんの学生が寝ちゃったなあ」という回もあります。「これは面白い!」と思った論文をみつけてきて、演習の授業でとりあげたら、学生たちの理解がさっぱりで、「学生には難しすぎたか……」という回もあります。

 失敗はまあ仕方がない。教師の側でさらなる工夫はいろいろできるわけですが(私もやっている)、それでもなお、すべての回に完璧な結果を出せる授業なんかは、普通の教師には無理です。

「教育の失敗」について、もう少し述べると、教える側の意図が学ぶ側では十分に達成されなかった「効果なし」だけでなく、「かえって悪影響」ということもありえます。「望ましくない副作用」ですね。たとえば、教師の何げない言葉から、「人間は信用できない」と生徒が思うようになってしまったり、くり返されるテストを通して、勉強の苦手な生徒に「努力をしてもしょうがない」と考えさせてしまうようなことがあります。学校は、生徒の人格の成長にとって、かえって悪影響を与える教育になってしまう側面もあるのです。




教育は、君と世界をどう変えるか。
学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか
2022年5月11日発売です。

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