ちくまプリマー新書

そもそも「教育」とは何か? 3つのポイント「意図的に」「他者」「組織化」

『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』より本文を一部公開

教育はしばしば失敗するし、学校は本質的に退屈である。にもかかわらず、学校や教育は世界を広げてくれる――。教育の目的から、学校の役割、道徳教育やAI社会まで、広い視点と多様な角度からとらえなおす一冊『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』(ちくまプリマー新書)より、内容を一部公開します。そもそも「教育」とは何なのでしょうか?

教育の定義

 そもそも「教育」とは何なのでしょうか。私は、「教育(education)」を定義するとき、「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」という定義を与えています(広田照幸 二〇〇九『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店)。「教育とは何か」については、いろいろな人がいろいろな定義をしていますが、おそらく、最もシンプルな定義の一つだと思います。いろいろなものをそぎ落としてみて、最後まで残る重要な性質を、私は「教育」の定義に使っています。

 なお、たまに「自己教育」という言葉を使う人がいますが、私の右の定義では、残念ながら、それは「教育」の枠から外れてしまいます。「自己教育」という考え方自体は、自分を客観化・対象化することなど、興味深い主題をいっぱい含んでいるのですが、これを含まない形で教育を定義した上で、論を進めていくことにします。

教える側の意図

「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」という定義には、重要なポイントがいくつかあります。

 一つ目は、「意図的に」です。つまり、こうなってほしい、こういうことを理解してほしいという、教育しようとする誰かの意図が存在しています。

 たとえば、私が何かを求めてヒマラヤ山脈に出かけていって、広大な山並みをみて感動して、「ああ!」と何かを感じ取ったとしても、別にヒマラヤ山脈が「教育」についての意図を持って、私に働きかけてくれたわけではないですよね。「ああ、これだ!」というのは私自身が自ら気づくわけです。そこには教育しようとする誰か他者の意図は存在しませんから、この定義に沿えば、そこに「教育」は基本的には存在しないのです。

 教育には教える側の意図が存在する、という点から、一つの難題が生じます。どういう意図を込めて教育するかという点に、多種多様な考え方があるということです。そのため、何を学ばせるべきか、どう学ばせるべきかについて、果てしない論争や対立が生まれてきます。

 たとえば、「教育される側が嫌がっていても、無理やり学習させるべきだ」という議論もできれば、「本人が望むまで待って、やりたいと思ったときにやらせればいい」という議論もできます。また、「しっかりとしたカリキュラムを組んでおいて、どんどん順番に教えるのがいい」という意見もあれば、逆に、「本人が関心を持ったところを入り口にして、そこからどんどんつなげて発展させていけばいい」など、いろいろな考え方ができます。

 教育学の議論の中では、たとえば、子どもが自身の経験の中から学ぶことをスタートにしていく経験主義の考え方と、あらかじめ知識の体系をつくっておいて、それを教えていく系統主義の考え方とがあり、経験主義対系統主義の果てしない対立がずっと続いています。二〇〇〇年前後の「ゆとり教育」改革をめぐる議論の対立は、その例の一つだったと思います。「アクティブ・ラーニング」という教え方の是非をめぐる最近の議論も、そういう対立の例です。

 また、何かをやろうとする本人の側に焦点を当てて、教育で何をどう教えるかを考えていく個人中心主義の考え方がある一方で、社会の側で今の子どもにこういうことを学んでほしいからこれを学ばせようという社会中心主義の考え方もあります。どちらの立場に立つのかによって、カリキュラムや教育方法の考え方が、まったく違ってきます。

 どういう「意図」を込めるのかについては、近代の教育のスタートから、さまざまな論や説が出てきていて、いろいろなところで、果てしない対立が続いているわけです。

 これはなかなか大変なことです。シンプルな定義では、複数の考え方の間の対立は表面には見えません。しかし、いざ実際に何をどう学ばせるべきかという「意図」の中身を議論し始めると、私たちは非常に複雑な対立の中でものを考えなければいけなくなるのです。

「教育」についての私の定義におけるポイントの二つ目は、「他者の学習」です。教育には他者が存在します。というか、教育は他者を変えようとするお節介な営みなのです。だから、他人に押し付けるものであるという意味で、権力性を持っています。私が学生たちに、「これを覚えろ」「これについて考えろ」と言うのは、それ自体が一つの権力的な作用です。それどころか、「おとなしく座って、まずは俺の話を聞け」というふうになっている段階で、教育には権力が作用していることになります。