地平を超えて
ビッグバンの瞬間から光が進んできた距離を超えて、その先を見ることはできない。それが私たちの宇宙の地平面を定義する。しかし、一日が経過するたびに、ビッグバンはそれだけ遠い過去へと後退する。昨日は私たちの地平面の向こう側だった空間が、今日は地平面の内側に入り、新たに観測可能となる。
もちろん、一日、あるいは数千年がさらに加わっても、宇宙の年齢はほんの少ししか上がらないし、観察可能な宇宙がほんのわずか広がっても、人間の時間尺度においてはほとんど気づかないだろう。しかし、私たちの遠い子孫たちはどんな宇宙を観察しているのだろうかと想像したり、地平面の向こう側で何が起こっているのかと考えて自分の頭脳を鍛えたりするのは楽しい。テニスンがユリシーズに語らせているとおりだ。
とはいえ、一切の経験は未踏の世界が仄見える弓形門、
その境界をわしが進めば永遠に
彼方に遠のき薄らいでゆく。
休息して生涯を終わり、磨かずに錆びたままで
使わずに光を失うことは、何という愚かなことか!
〔『対訳 テニスン詩集』西前美巳編、岩波文庫、103ページ〕
膨張する宇宙の地平面は、多くの疑問を突きつける。たとえば、「地平面が膨張していくなら、やがて宇宙全体がその内側に来るのではないだろうか?」と、気になってしまう。宇宙が有限なら、やがてそうなるだろう。よく知られているように、有限な宇宙でも端はなくてかまわない。球――つまり、ボールの表面などのような形状――は、有限だが境界がない空間の例である。普通のボールの表面は二次元だ。視覚化するのは難しいが、数学者にとっては、普通の球のように有限だが境界のない三次元空間を定義することは朝飯前なのである。このような空間が、有限の宇宙の候補となる。
観察可能な宇宙は非常に一様だ。至るところに同じ種類の物質が存在しており、それらの物質は、どこでも同じ物理法則にしたがい、同じやり方で組織化され、均一に分布している。さて、膨張する地平面が提起するもう一つの疑問は、この「普遍的な(ユニバーサル)」パターンは、私たちにはまだ見えない部分でも持続するのだろうか、というものだ。
あるいは、宇宙は本当は「多宇宙(マルチバース)」で、そこにはさまざまな異なるパターンや法則が存在しているのだろうか? この疑問に答える最も直接的な方法は、遠い彼方で起こっている風変わりな事柄を観察することだろう。そのようなものを観察することができれば、マルチバースを実験によって確かめられるかもしれない。残念だがもっとも論理的にありうるのが、根本的な法則と宇宙論に関するほかの諸事実は私たちがマルチバースに暮らしていることを示唆しているが、私たちの世界とは「異なる」部分を観察することができるのは、遠い未来に地平面が膨張してそれらの部分を内包するようになったときだけだという事態だ。私がこのありうる事態を「残念」だと呼ぶのは、私にとっては、ある考え方を新たなレベルに発展させることは、私たちが経験する世界について何か具体的なことを述べるためにその考え方を用いることによってこそ可能だからだ。ここにマジックがある。さらに、常に誠実でいるためにも、検証が必要だからである。
空間の粒子?
ユークリッドは、同じ概念ツールを使いながら、際限なくどんどん正確に距離を測定することができると考えた。彼は、原子、素粒子、あるいは量子力学などについては何も知らなかった。今日私たちは、このような極微の世界のことは彼よりもよく知っている。物質を非常に小さい部分へと分割すると、物事はがらりと変貌する! 静かに落ちた一粒の水滴は、連続的で静的に見えるが、割れて多数の原子になり、さらに基本な単位に分かれて、量子力学のメロディーに合わせ、小刻みに震えたり、ゆったりと揺れたりする。
原子以下の距離を測定しようとするときには、ユークリッドが想定していた、硬い物質でできた定規などとはまったく異なるツールが必要だ。定規のような道具には、さまざまな尺度に適用できる進化版などない。それでもユークリッド幾何学は、私たちの基本的な方程式のなかで、誇らしげに生き続けている。これらの方程式において素粒子たちが(そして、これらの粒子を支える場も)存在しているのは、ユークリッドが仮定したとおりの、あらゆる部分で均質で、長さと角度によって測定され、ピタゴラスの定理にしたがう、継ぎ目のない一つの連続体のなかだ。自然が私たちをこのままで放ったらかしにしてきたのは奇妙だ。しかも今にいたるまで……。
……しかし、いつまでもそうはいかない。アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間は一種の物質だ。それは曲がったり運動したりできる動力学的な実在だ。本書でのちに論ずるが、空間を物質と考えるべき理由はほかにも多数出てくる。量子力学の原理によれば、運動できるものはすべて、おのずと運動する。その結果、二点間の距離は変動する。一般相対性理論を量子力学と結びつけて計算すると、空間は震えるゼリーのように、常に動いていることが明らかになる。
二点間の距離がそれほど小さくないときは、このような距離の量子揺らぎは距離そのものに比べて無視できるほど小さいと予測される。その場合、実生活上の問題に対処している限りでは、揺らぎは無視して、心地よいユークリッド幾何学に戻ることができる。しかし、焦点を約(10-33センチメートル――「プランク長」と呼ばれる微小な距離――以下に絞ると、二点間の距離の揺らぎの典型値は、距離そのものと同等、あるいはそれより大きくなる。ウィリアム・バトラー・イェーツの詩〔「再臨」〕の、終末観漂う二行が思い浮かぶ。
中心は持ちこたえられない。
純然たる混乱が世界に放たれた
身をよじるものさしや踊るコンパスは、ユークリッドによる幾何学へのアプローチの根底を揺るがし、ひいてはアインシュタインの基盤も損なう。GPSの考え方を小さな尺度に適用することはできない。なぜなら、プランク長の精度で人工衛星の軌道を測定しても、ノイズだらけで予測不可能だからだ。では何がそれにとって代わるのか? 確かなことは誰にもわからない。しかし、実験から指針が得られる見込みがわずかながらある。というのも、プランク長は、私たちが解像の仕方を知っている距離の数千兆倍も小さいからだ。しかし、時空間は本質的には物質――時空間よりも私たちがはるかに深く理解しているもの――と変わらないという考え方は、私には抗しがたい。もしもそうならば、時空間はまったく同一の単位――「空間の粒子」――が膨大な数集まってできているはずだ。この「空間の粒子」のそれぞれは、隣り合う「空間の粒子」と接触し、メッセージを交換し、結びついたり別れたりして、生まれたり死んだりしていることだろう。