ちくま文庫

『そこから青い闇がささやき』解説

戦争は、どのように始まり、どのように人々から家、街、友人、仕事…あらゆるものを奪っていくのか。戦火の旧ユーゴスラビア、ベオグラードに留まった詩人・山崎佳代子が記した『そこから青い闇がささやき――ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫、2022年8月刊)。この本の池澤夏樹さんによる解説を特別公開いたします。ぜひお読みください。

 こんな本の「解説」が誰に書けるだろう?

 山崎佳代子は友人である。

 彼女の詩をたくさん読んできたし、彼女の国セルビアを二度訪れた。札幌でも会い東京でも会った。たくさんの言葉を交わし、一緒にたくさんの人に会い、いろいろなものを食べた。

 それでもユーゴスラビアが解体してセルビアになる痛苦の歴史と国連制裁と空爆の悲嘆の体験を書いたこの本を解説することはむずかしい。これはそれ自体で完結した本だから、ただ読んでほしいと言うしかない。

 では彼女と共有するぼくの思いと記憶を綴ることにしよう。

 異国に住むこの詩人の本を読んだのがいつでそれが何だったのか思い出せない。いずれにしても遠い昔のことだ。この『そこから青い闇がささやき』を読んだ時のことは覚えている。2003年の夏、ぼくが前年の暮れから勝手にやっていたイラク戦争反対の一人キャンペーンが(当然ながら)失敗に終わってあの国の子供たちの上に爆弾が降った後、失意の時期だった。だから戦下の人々の受難を伝えるこの本の言葉が理解できた。この本に書かれた事態をイラクの現実に重ねた。

 2008年にベオグラードのブックフェアに招かれて、山崎さんの人柄に親しく接した。ぼくは友人を作るのが下手なのだがこの人とは友人になれた。だれでも会えば友人になるしかないような人なのだ。そのことはこの本を読めば歴然、これは友人と知人、たまたま出会った人などとの、一瞬でそれぞれの思いが伝わる言葉のやりとりに満ちた本である。

 初めてのベオグラードでこの国の人たちがどれほど本が好きかを知った。この国の物価を考えると本は決して安くない。だからみんな買いたい本の名をメモしておいて年に一度のこのフェアで少し割引で買うのだという。実際、会場には人があふれていた(ブックフェアはヨーロッパで盛んで日本にはないものである)。

 この国では詩が文芸の中で大きな地位を占めていることもよくわかった。そこで日本語とセルビア語で詩を書くカヨコがいかに活動的であるか自然と感知できた。実際、脇で見ていると彼女の一日はアレグロ・マ・ノン・トロッポで進行しているようだ。出会って立ち話をする相手の数がまこと多くて広い敬愛を受けているかがよくわかる。

 次は2015年の10月。東ヨーロッパ各国の日本文学研究者の会合で、ぼくも参加した。

 この時の旅で大事なのはヴルニャチカ・バニャという保養地でコソボから避難してきた女性たちの話を聞いたこと。お膳立てをしてくれたのはもちろんカヨコである。この体験はそのままこの本の内容に繫がる。旧ユーゴスラビアの悲劇はぜんぜん終わっていない。

 1991年9月、コソボのアルバニア系住民が一方的にセルビアからの独立を宣言して領内のセルビア系の人を迫害し始めた。それまでは隣人同士で平和に暮らしていた日常にいきなり狭量な民族主義が割り込んできて分断を図る。暴力沙汰が頻発して人が殺され、耐えられなくなった者が難民となってセルビアに逃げる。

 そうして来た女性たちが一緒に暮らす施設がここにある。ぼくが行った日、彼女たち20人ほどが集まってそれぞれの体験を話してくれた。

 そのうちの一人、スネジャナ・ディミッチさんの身に起こったこと。ぼくより10歳ほど歳下の女性である。コソボ・ポーリェという町に住んでいたが、1999年の初夏、国連軍が入ってきて、それまでセルビア系の住民にとってはテロリストでしかなかったアルバニア系の「コソボ解放軍」が正規の警察になった。彼女の夫は発電所の技師だった。6月13日、落雷で故障した箇所を修理しに出勤した。その作業中、彼らが来て、作業中であるのを承知の上で、通電した。夫は感電死した。それでも彼女は半年の間、隣人がみな逃げてしまったアパートに一人で、嫌がらせに耐えて、留まった。11月1日になって迎えに来た弟の説得を受け入れてセルビアに移った。それ以来、ヴルニャチカ・バニャで暮らしている。

 一人一人からそういう体験を聞く。一人の人は途中で泣き出してしまった。15年前の辛い記憶がそっくりそのまま戻ってくる。他の人たちがそっと慰める。しかしその人は彼女たちの手料理が並ぶ夕食の席で改めて自分のことを静かに話してくれた。

 こういう活動のぜんたいにカヨコは深く関わっている。それが何十年も続いている。そこから詩が生まれる。

 なぜ詩なのか。

 詩人にとってある種の体験は詩にせざるを得ないものだから。

 その典型的な例がこの本のいちばん初めに置かれた「階段、ふたりの天使──ステファンとダヤナへ」という作品である。

 1999年のNATOによる爆撃の時、78日間続いたこの困難な時期にカヨコと家族はその手段はあるのにベオグラードを離れなかった。それができないほどこの町の人々との絆は強かった。

 家族は14階建ての集合住宅に住んでいた。物資の不足と停電に苦しめられ、連日連夜の空襲警報に怯えて暮らした。テレビ局と化学工場が破壊された。

 そして同じ建物に住む幼い子供2人が疎開先の祖父の家で爆弾で死んだと告げられた。よく知っている顔。愛らしい盛りの男の子と女の子。2人の遺影が建物の入り口に貼り出された。

 ここに住む人々は停電でエレベーターが動かないので毎日階段を上り下りしていた。カヨコの場合は11階。水をいっぱい入れたバケツを持って暗闇の階段を上るのは容易なことではなかった。あの子たちが日々上った階段である。

 幼い死と階段が一緒になった時、詩が生まれた。

  天使が空に
  かえった朝も
  小さな足あとが
  ただ闇にかがやき
 
 詩を書く時には草稿を何度も口に出して語調を整える。この詩の場合もカヨコはそうしただろうし、同じ詩のセルビア語の版でも音の繫がりを何度も確かめただろう。そうやって2人の子供は悼まれた。日本語とセルビア語、どちらが先に書かれたのだろう?

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