ちくま文庫

『そこから青い闇がささやき』解説

戦争は、どのように始まり、どのように人々から家、街、友人、仕事…あらゆるものを奪っていくのか。戦火の旧ユーゴスラビア、ベオグラードに留まった詩人・山崎佳代子が記した『そこから青い闇がささやき――ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫、2022年8月刊)。この本の池澤夏樹さんによる解説を特別公開いたします。ぜひお読みください。

 なぜセルビアはNATOの攻撃を受けたか?

 もともとユーゴスラビアは多くの民族が共存する珍しい国家だった。冷戦時代、ティトーというカリスマ的な大統領の人望で国家としての統一を保っていたが、1980年に彼が死んで各民族の間がきしみ始めた時、西側列強はユーゴスラビアは解体するしかないと考え、その方策として最も大きなセルビアに対する他民族の反抗を応援することにした。そしてセルビア人を悪者に仕立てるべく宣伝戦に出た。メディアはクロアティアとの戦いではクロアティア側の死者の数ばかりを報じた。セルビア人のふるまいに「民族浄化」というレッテルを貼ったのはアメリカの広告代理店だった。複雑な歴史を最も単純化して言えばそういうことになる。

 そして世界はインテリまで含めてころりと騙された。NATOの爆撃に反対したのはソルジェニーツィンやアンゲロプロスなど僅かで、スーザン・ソンタグやエンツェンスベルガーまでが賛成に手を挙げた。あのソンタグが宣伝に乗ってジェノサイドという言葉を鵜吞みにしたのだ。

 この時に爆撃に反対と公言したのがドイツ語の詩人ペーター・ハントケだった。なぜセルビアだけが悪いのかと彼は言い、爆弾の降るセルビアにわざわざ旅行してその報告を刊行し、爆弾が落ちる下には普通の人たちがいると伝えた。罵詈雑言(ばりぞうごん)が彼に殺到し、文学賞などの栄誉が過去に遡って剝奪された。みながヒステリックになり、今の用語で言えば炎上だが彼は自分が言ったことを撤回しなかった。

 そして、時がたつにつれて世界は彼が間違っていなかったことを少しずつ理解するようになったらしい。2019年のノーベル文学賞が彼に与えられたのは名誉回復の試みであり謝罪であっただろうとぼくは考える。

 彼の詩を引用しておこう。ヴィム・ヴェンダースの映画「ベルリン・天使の詩」の冒頭で手書きの文字と朗読で観客に手渡される──

  子供は子供だったころ
  腕をブラブラさせ

  小川は川になれ 川は大河になれ
  水たまりは海になれと思った

  子供は子供だったころ
  自分が子供とは知らず
  すべてに魂があり
  魂はひとつと思っていた

 最後にカヨコの人柄について。

 書いた言葉がいいのは本書を見ればわかることだが、話す言葉もすばらしい。食事など私的な場での会話が巧みなのはもちろんのこと、学生や聴衆を前にしての公的な話の場でも聞く者みんなの心をあっという間に摑む。笑いを引き出し、テーマに向けて心を引き寄せ、言いたいことを理解させ、共感を呼び、感銘を与える。

 これは彼女がセルビア語で話すのを聞いていたぼくの感想。この言葉をぼくはまったく知らないのだが、それでも場の雰囲気はわかる。語学の才ということもあるだろうが、しかしこれは人間の才なのだ。

 カヨコの詩のこと。

 これは読んでもらうしかない。

 読めば彼女が引用している詩人ステバン・ライチコビッチさんの言うことがわかるはずだ──「散文は外の世界からやって来て、詩は内なる世界からやって来る」。

 多くのことがセルビアという外の世界からやってきて、それを彼女はこの本に書いた。そして一旦は彼女の中に入ったそれらの事象が心の内で精錬され結晶として詩になった、「階段、ふたりの天使」のような。 

                           2022年6月 沖縄 今帰仁 

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