単行本

ネアンデルタール

ユヴァル・ノア・ハラリ推薦、話題の翻訳書『ネアンデルタール』から、序章の試し読みを公開します。

 2014年、英領ジブラルタルのゴーラム洞窟群。ヨーロッパ南端にあるこの温暖な地では、毎年、ネアンデルタール会議が開かれ、考古学者と人類学者が集結する。世界各地で開かれるネアンデルタール会議の一つだ。
 しかし、その年は特別なことが起きた。この大聖堂のような巨大な洞窟を訪れた人々の中に、「音楽家キッド・コマ」こと、生物学者のダグ・ラーソンがいて、ギターをつまびきながら「ラスト・マン・スタンディング」を歌ったのだ。最も時代の若いネアンデルタール人の化石人骨は、イベリア半島と、この洞窟群から出土したからだ。
 ラーソン教授の歌声は、数分にわたって巨大な洞窟に響き渡り、その間、集まった学者たちの頭からは、研究発表(プレゼンテーシヨン)についての不安も、学説をめぐっての対立も、石器分類に関する悩みも消えた。彼らはただ耳を傾け、太古の昔とつながりたいという、人間らしい衝動に身を委ねた。この不思議で奇妙な感動に満ちたひとときを、あなたも体験することができる。誰かが撮影した映像を今もユーチューブで見ることができるのだ。
 この何万年も前の墓場で奏でられたセレナーデは、科学を支える人々のありのままの姿を垣間見せてくれる。プレゼンテーションはあくまで科学的で緻密で客観的だが、それが終わると、同僚にして友人でもある彼らはカフェやバーに集う。そこでの会話からは、より自由で情熱的でさえある推論が生まれる。「夢」のような遺跡、知っていること、知らないこと、あらゆることについて会話が交わされる。すべての中心にあるのは、いつの日かネアンデルタール人の真の姿を捉えたいという思いだ。
 本書は、そうした議論を知るための窓になるだろう。ネアンデルタール人について聞いたことがある人、ない人、漠然と興味を持っているだけの人、アマチュアの専門家、さらにはネアンデルタール人が生きた太古の世界を研究するという幸運に恵まれた科学者にとってさえ、それらの議論を知るのは有益なはずだ。なぜなら、現在、ネアンデルタール人についての研究はますます先が見えなくなっているからだ。
 データと理論が入り組んだ道を進んでいくと新たな発見に出くわし、進路の変更やUターンを迫られることも珍しくない。また、情報は膨大で、ネアンデルタールに関する論文のすべてを読むのは不可能であり、自分が専門とする下位分野(サブフイールド)の論文を読み通すことさえできない。そんな中、経験豊かな研究者でも啞然とするような新発見が続いている。
 これほど多く注目され、分析されるのは、ネアンデルタール人が今も昔も”重要”だからだ。彼らには、他の絶滅した人類にはない大衆的な魅力があり、ホミニンと呼ばれる太古の親戚の中でも人気は抜群だ。彼らについて大きな発見があると、必ず一流科学誌の表紙を飾り、主流メディアで大々的に報じられる。
 その人気が衰えるきざしはない。グーグル・トレンドによると、「ネアンデルタール人」の検索数は「人類進化」の検索数を上回ってさえいる。しかし、有名(セレブ)であることには危険が伴い、ネアンデルタールという単語がクリック数を増やすことをよく知っているメディアは、「誰がネアンデルタール人を殺したか」とか、「ネアンデルタール人は思うほどバカじゃなかった!」といった刺激的な文句で読者を誘う。
 研究者たちは、メディアを通じて自らの研究結果を伝えることに熱心だが、その一方で、矛盾した報道に不満を覚えてもいる。しかもそれらの報道は彼らを、ある学説から別の学説へとよろめきながら進んでいくオタクのように描く。
 科学が論争によって前進するのは確かだ。しかし、新たなデータや学説は、研究者の困惑ではなく、彼らの巨大なダイナミズムを反映するものであるべきだ。「ネアンデルタール人ニュース」というような陳腐な報道がなされているかぎり、とりわけ興味深い最新の発見が一般の人々の耳に届くことはないだろう。
 また、ネアンデルタール人の全体像を把握するのは難しく、それは最初に発見された頃から大幅に変化した。1856年、ドイツの採石場で奇妙な化石(化石化とは骨が鉱物になること)が発見され、暫定的に、絶滅した人類の化石と見なされた。学者たちは、この奇妙な化石の仲間を見つけようと、あちこちを掘り始めた。その甲斐あって、第一次世界大戦までに、ネアンデルタール人の骨が続々と発見され、地球にはわたしたちの他にも多くの同胞がいたことが明らかになった。大量に見つかった彼らの石器も注目を集め、ネアンデルタール人の文化について本格的な調査が始まった。
 時代もそれを後押しした。20世紀半ばになると、年代測定法や地質年代学が進歩して、年代がはっきりしない遺跡や、遠く離れた遺跡を結びつけられるようになった。さらに70年以上の年月を経た現在、わたしたちはそれらの土台の上に、35万年以上、数千キロメートルに及ぶネアンデルタール人の壮大な世界の実像を明らかにしようとしている。
 ヴィクトリア時代の人々から見れば、21世紀の考古学は未来学者の空想のように思えるかもしれない。初期の考古学者たちが太古の昔を再現する手段は、石と骨しかなかったが、今日の研究者は先人には想像も及ばなかった方法で研究している。インクでスケッチを描く代わりに、レーザースキャナで遺跡全体の三次元画像を撮り、魚のうろこ、羽根の羽枝 、個々の炉跡のマイクロヒストリーといった、1世紀前には誰も想像さえしなかった遺物を調べている。かつてはスコップの先から生まれた洞察が、現在では顕微鏡のレンズの下から生まれているのだ。
 そういうわけでわたしたちは、ネアンデルタール人の肩越しに見るかのように、4万5000年前にほんの数分で丸い石が削られて鋭利な剝片(フレーク)になるさまを見ることができるようになった。また、かつては静的だった考古学的記録が動的(ダイナミック)になった。道具が遺跡の中を移動し、他の場所へ運ばれる様子を見ることができ、その軌跡を逆にたどって、石が掘り出された露頭を突き止めることもできる。
 ネアンデルタール人の体に関しても、驚くほど詳しい情報を得られるようになった。たとえば歯については、日々生じる成長線を精査し、微小な傷から食物を推定し、歯石に染みこんだ炉の煙を化学的に「嗅ぐ」ことさえ可能なのだ。
 こうした豊富な情報に支えられて、この30年間でネアンデルタール人研究にルネッサンスが起きた。驚くべき発見が次々に報じられ、彼らがいつどこに住んでいたか、どんな道具を使い、何を食べていたか、といった基本的なことがらについての理解が大きく変わり、彼らの世界の象徴的な側面も見えてきた。
 だが、おそらく最も驚くべきは、以前は誰も信じようとしなかった異種間の恋愛が、何の変哲もない骨のかけらによって立証されたり、小さじ一杯分の洞窟の土から彼らの全ゲノムが抽出されたりすることだろう。
 最新の機器によって、あらゆる遺物から膨大な情報を引き出せるようになったが、遺物を理解するには、それらが出土した遺跡が「どのように」形成されたかを知ることが欠かせない。どのような遺物も、何万年、何十万年にもわたる保存、侵食、経時的変化のせいで、わたしたちが手にする頃には断片化している。
 しかし、遺物の分析に夢中になる前に、それが地層のどこに含まれていたかを記録することが重要だ。そうすれば地層の各層の状況が見えてきて、長らくばらばらになっていたものを元通りにできる。地層の構造、含まれる剝片の傾き、骨片の風化の度合いなどはすべて、遺跡の形成を読み解くのに役立つ。こうした、ばらばらで時にはごちゃごちゃになったアーカイブから、わたしたちは歴史を拾い集めていく。
 そういうわけで考古学者たちは、発掘している間はわくわくしていても、その後は冷静にならざるを得ない。平均的な遺跡でも何万点から何十万点もの遺物が出土し、それぞれを洗浄してラベルをつけ、個別の密閉袋に収めなければならない。それらの情報は巨大なデータベースにデジタルで保存され、地質学と環境とホミニンの行動との接点を探るための貴重な情報源になる。
 このような慎重さは、ずいぶん昔に収集されて博物館に収められたコレクションの扱いにも変化をもたらした。「代表的な」遺跡、つまり、毎年、大勢の観光客が訪れるような遺跡でも、最先端のテクノロジーで分析しなおすと、新たな発見や、ときには予想外の発見がある。こうした情報を統合することで、「ネアンデルタール人は何を食べたか?」といった基本的な疑問にも、かつてないほど正確に答えられるようになった。
 とは言え、彼らの食生活に関する研究に少し足を踏み入れただけで、その疑問に答えるのは容易でないことがわかる。まず、残された動物の骨の割合、歯や石器の微小な摩耗、残っていた食物、化石の化学的・遺伝子的分析など、利用できる方法や材料が多岐にわたっているのに加えて、遺跡がどのように形成されたかがこの件にも関わってくる。石器による切り傷だらけの動物の骨が山積みになった遺跡でも、そこで何が起きたかは、必ずしもはっきりしない。考古学者たちは手痛い失敗を重ねながら、他の捕食者の役割を考慮しなければならないことや、体は部位によって腐敗の速度が異なることを学んできた。
 それでも、ひとつひとつの進展が全体像の空白を埋めていく。たとえば、ネアンデルタール人のメニューに載っていたのは大型動物だけではないことがわかっているが、彼らはいつでもどこでも同じ物を食べたのだろうか。
 彼らの生活はすべて関連しているので、食についての疑問は、「大きな疑問」すなわち彼らの体はどのくらいの食料を必要としたのか、彼らは調理をしたのか、どのような狩りをしたのか、テリトリーはどのくらい広かったのか、社会的ネットワークはどのようなものだったのか、といった疑問と絡みあっている。そして、それぞれの問いは、複雑な全体像のまた別の層へとわたしたちを導く。
 膨大な数の遺物や遺跡にパターンを見つけるには、データをとことん調べて、場所と時期の橋渡しをしなければならない。ネアンデルタール人の生活は言うなれば四次元であり、ある場所でのトナカイ狩りを詳しく再現するには、他の場所、他の時代での狩りについても問う必要がある。
 遺跡には、一人の遺骸の周りに石がばらまかれているものから、大量の骨が大量の灰に埋もれているもの、「何百頭」もの動物の残骸が山積みになったものまで、さまざまな種類がある。このように遺跡のありようが千差万別であるのに加えて、時の流れの気まぐれさという問題にも、わたしたちは直面する。
 地層がどのようにできたかによって、同じ厚さの層に、ある日の午後の痕跡しか含まれないこともあれば、1万年分の痕跡が含まれることもある。地層を読み解くうえで、個々の遺物の年代測定は強力なツールだが、それが役立つのは、遺物が地層間を移動していないと確信できる場合だけだ。そして、それぞれの遺物や地層や遺跡から得られた情報は外へと広がっていき、異なるスケールの行動を結びつける。
 こうした微妙なニュアンスが、ネアンデルタール人に関する一般的な議論や解説に登場することはめったにない。多くの人は、ネアンデルタール人について大まかなことは知っていても、科学的な詳細は知らず、しかも、たいていは氷やマンモスを背景にした姿を思い描いている。
 しかし、凍てつく荒野で震えながらどうにか生きのびていた粗末な身なりの人々が、ホモ・サピエンスの出現によって唐突に死に絶えたという、根深いステレオタイプを超えたところに、まったく異なるネアンデルタール人の世界がある。
 ソーシャルメディアに通じた研究者や会議のライブストリーミング配信のおかげで、研究成果へのアクセスは大幅に向上したが、巷ちまたには新たなデータや複雑な解釈が溢れており、バランスの取れた真の意味での最新の見解を見つけるのは難しい。ネアンデルタール人に関する「すごい!」発見は、夜昼なくニュースで報じられ、研究者さえ驚かせているが、「派手な」話が興味深い話とは限らない。一方、慎重に論じられる学説や、何十年も続く議論が大々的に報じられることはないが、それらにはネアンデルタール人の生活に関する驚くべき洞察が含まれている。
 実際、解釈の大幅な軌道修正により、彼らのイメージは変わった。データが増えるにつれて、わたしたちの視野は広がり、「わたしたち」と「彼ら」とのギャップはどんどん狭せばまってきた。
 ネアンデルタール人には無理だと思われていた多くの事柄が実際はそうでなかったことが、今日ではわかっている。たとえば、石以外の素材による道具作り、オーカー(岩絵具)の使用、貝殻やワシのかぎ爪などの収集、ひいては、美の追求といったことだ。
 さらに、多様性も見えてきた。今や彼らはモンタージュ写真で再現されたホミニンではなく、古代ローマ帝国のように広く豊かな世界の住人と見なされている。彼らが広い範囲に長い年月生きたことが意味するのは、文化が複雑かつ多様で、進歩していたということだ。多様性と適応性を備えた彼らは、巨大な氷河がツンドラと接する世界だけでなく、温暖な森林、砂漠、海岸、山脈でも暮らしていた。
 ネアンデルタール人の発見から160年以上がすぎたが、わたしたちは今も彼らに夢中だ。人の一生より長い熱愛だが、彼らが太陽に目を細め、胸いっぱいに空気を吸いこみ、泥や砂や雪に足跡を残しながら地球に生きた膨大な年月に比べると、時という大時計の秒針の一振れにすぎない。
 「ネアンデルタール人は人間か?」と検索する一般人から、日々彼らの遺物を調べている研究者まで、彼らに対する考え方や感じ方は常に変化している。ネアンデルタール人のイメージは、わたしたちが見ている前で描き直され、新たな発見があるたびに、その真の姿に対するわたしたちの期待と恐怖は搔き立てられる。
 とりわけ不思議に思えるのは、彼らが想像もしなかった死後の運命だ。彼らの物語はほぼ2世紀におよぶ科学や歴史や大衆文化と絡みあい、今やわたしたちの遠い未来へと続いている。
 この先のページには、21世紀のネアンデルタール人の肖像が描かれている。系統樹の枯れた枝にいた頭の鈍い負け犬としてではなく、非常に適応力があり、成功さえ収めた古代の親戚として。あなたが本書を読んでいるのは、彼らや、彼らが投げかける難解で壮大な謎、すなわち、わたしたちは誰なのか、どこから来て、どこへ行くのか、という謎に心惹かれるからだろう。
 影の向こうに目を凝らし、こだまの向こうに耳を澄まそう。彼らは多くのことを語ってくれる。人間としての別のあり方も、わたしたち自身に対する新たな見方も。
 何より素晴らしいのは、彼らが進化の袋小路にはまりこんだ別種の人類でもなければ、過去の現象でもなく、わたしたち人類の一員であることだ。彼らは、キーを打つわたしの手の中、そして、わたしの言葉を理解するあなたの脳の中に生きている。
 さあ、これからあなたの親戚(キンドレッド)に会いにいこう。

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