単行本

あなたはそれを光らせていい
津村記久子『苦手から始める作文教室 文章が書けたらいいことはある?』書評

「作文が年々苦手になっています」。芥川賞作家・津村記久子さんの衝撃の告白から始まる『苦手から始める作文教室』を、歌人の岡野大嗣さんが自分の作文体験を重ねながら紹介してくださいました。(PR誌「ちくま」10月号より転載)

 僕はいま、作文が苦手だった高校生の頃の僕だ。何者かになりたくて焦っている十七歳が、本屋の棚に光るタイトルを見つけて立ちどまる。『苦手から始める作文教室』。騙されてやるつもりでぱらぱらと。ご丁寧に作者の自己紹介から始まる。小説家。二十七歳で賞を取ったらしい。上り詰めた人だ。苦手な人の気持ちには寄り添えない人なんだろ、と思って読み進めると、どうも様子がおかしい。文章を書くことに対して不安げで、「作文が年々苦手になってきています。」などとこぼされる。あまりの「ありのままさ」に心を許し始めてしまう。もし、オリンピックの体操メダリストが書いた『苦手から始める跳び箱教室』という本があるとして、冒頭で「わたしは跳び箱が年々苦手になってきています。」なんて言われたら。このまま教わって大丈夫かと、不安に襲われそうだが、この津村記久子という人の自信の無さにはなぜか安心と信頼を覚える。この「ありのままさ」そのものが文章表現の極意なのかもしれない。そんな気がして、十七の僕はレジへと向かう。

 関西では、人前で自分を格好よく見せようと見栄を張る人のことを「ええかっこしい」と呼ぶ。十代の頃、作文をするとき僕は「ええかっこしい」になりがちだった。教室で拍手喝采を浴びたかった。人目を意識するあまり、本当はそれほど心を動かされたこともない題材を選び、脚色をする。だから、書いたものを読み返すと嘘っぽく思える。作文をするたび自分に嘘をつくような感覚がつらくなり、表現することへの苦手意識を持ってしまっていた。

 さかのぼると僕にも「ええかっこしい」にならず表現をできていた時代があった。小学校2年生の頃。ライオンの親子の絵を描いて、小さなコンクールで賞をもらったことがある。そのライオンには耳が無かった、元からそういう生きものであるかのように。両親はこの出来事をわが子の愛らしいエピソードとして語り継いでいたが、今にして思うと、あれは耳を描き忘れたわけではない。幼い当時の僕の目にうつるライオンには耳が無いように感じられ、ただただ「本当のこと」として表現したんだろう。そしてそれは選考者の目に、耳のあるライオンの絵よりも光って見えたのだ。

 表して、現す。「表現」という言葉には、「手品」も「魔法」も英語では両方「マジック」と呼ぶのと同じ類いの捉えどころのなさがある。自分の中にあるものを表に出す。見たものを見たまま、聞こえたものを聞こえたまま。ありのままの姿を見せるだけなのだが、これが簡単なようで難しい。ビートルズやディズニーの歌の主題になるくらい「ありのまま」は間口が広く、また奥行きも深いテーマなのだ。『苦手から始める作文教室』は、その「ありのまま」と向き合う楽しさを、地に足の着いた語り口で、しかしカラフルに教えてくれる。おもしろい文章って、たねがある魔法なんだよ、と。いきなりペンからあふれ出るものではなく、たねを集めるところから始まるんだよ、と。たねを見つけるのに特別な才能はいらない。どんなたねだっていい。それを大切に磨き上げる過程で文章に魔法がかかるのだ。

さえない「本当のこと」「普通のこと」が光って見えるということは、「本当のこと」「普通のこと」であっても「それでいいんだ」と思えることでもあります。
第6章「伝わる文章ってどんなもの?」より

 僕はもう(空想以外の方法では)十代で『苦手から始める作文教室』に出会うことはできない。十代でこの本に出会える読者をうらやましく思う。あなたはあなたのどんな日々だって、それをそのまま光らせていいのだ。

 さて、この書評はじつは『苦手から始める作文教室』で教わったことをいかして書きました。よかったら、あなたもぜひ教室の生徒になって、この本の感想を書いてみませんか。そう、ありのまま、「ええかっこ」せず。



 
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