筑摩選書

現代物理学で世界を捉えると
フランク・ウィルチェック『すべては量子でできている』

宇宙はどのようにして誕生したのか、この世界はなぜこのようなかたちで成り立っているのか。人類永遠の謎ともいえるこうした難題にノーベル賞物理学者が取り組んだ話題作『すべては量子でできている』。本書の読みどころやウィルチェックの人となりについて、訳者の吉田三知世氏が紹介した文章を『ちくま』より転載します。

 ノーベル賞受賞物理学者ウィルチェックの新著『すべては量子でできている』は、その大半が2020年春に執筆された。コロナ禍で日常生活が崩れ、社会が転覆した最初の頃である。それは、不安に駆られ、「世界とは一体どういうところなんだ?」と訝る人々に、物理的世界を最先端物理学の知識によって把握すれば、一見複雑なこの世界は意外に単純な根本原理と構成要素でできており説明できるのだ、物理的世界にはそんな拠りどころがあるのだと、諭してくれているようだ。
 コロナ禍で、会えない人と自分を隔てている空間や、無為にあるいは辛く過ぎていく時間について、改めてこれって何? と思ったり、生きることの意味を問いかけてみた人も多かろう。本書は、空間や時間の概念や、宇宙における人間の立ち位置などについて、宇宙論から量子力学までの根本的な物理法則を平易に解説することによって新たな捉え方を提案していく。
 執筆が本格化する少し前に、彼に孫が生まれた。本書の「まえがき」では、生まれてまもない孫が世界と関わっていく姿が詳しく描かれる。世界を理解するために頭のなかでモデルを構築し、周囲をじっくり観察したり、自らそれと関わったりしながらそのモデルを修正していく赤ん坊の姿は、科学者が研究に取り組む姿と本質的に同じだと彼は見抜く。そのうえで、既存のモデルの精緻化にとどまらない完全な刷新のために必要なのは幼子と同じ「飽くことなき好奇心」と「偏見のない心」だと説く。彼が繰り返し「生まれ変わる」という言葉で奨励するとおり、転換点に至り、ブレークスルーを達成するために必要なのはそれなのである。
 ウィルチェック自身の大きな転換点の1つが1970年、学生運動で授業がなくなった大学で開かれた特別講座で数学的対称性の威力を学んだ経験だ。その高揚感は、ノーベル賞に輝いた、量子色力学(強い力の理論)の研究まで続いていたのではないか。この研究の要、漸近的自由は特別講座の3年後の1973年、博士論文研究中に発見したものだ。フリーマン・ダイソンが「理解されるには100年かかる」と予言した強い力の理論を、弱冠21歳の大学院生が作ってしまったのだ。
 その後もウィルチェックは、アクシオンやエニオンという新粒子を提案してきた。彼自ら物理的理解の中核と重んじる標準模型にはない粒子である。アクシオンは、量子色力学のある未解決問題を解決する可能性を持つ粒子で、宇宙に大量に存在するはずの謎の物質ダークマターの候補とも考えられている。エニオンは、フェルミオンとボソンのどちらにもなりうる粒子だが、2020年に2つの実験において検出された。
 既存の思考や概念を打ち破るウィルチェックのユニークな思考にはいつも感服させられるが、本書にも登場する時間結晶の概念もその一例だ。空間的周期性を持つ普通の結晶からの類推で、一定の時間周期で繰り返される物理現象を時間の結晶として捉えたもので、2012年にウィルチェックが提唱した。もちろん、そのヒントとなったのは特殊相対性理論の時間と空間の等価性である。その後他の研究者らにより理論が精緻化され、2017年に2つのグループにより時間結晶に当たる新物質が発見された。
 ウィルチェックは、時間結晶の概念を宇宙論に拡張する可能性も模索している。ビッグバンに始まりビッグクランチに終わることを繰り返すというサイクリック宇宙の概念は確かに時間結晶と大変よく似ているが、彼が1つのアイデアをさまざまな状況に当てはめていく柔軟性には舌を巻く。さらに近年では、アクシオンと超対称性を結びつけるとどうなるかや、量子力学の効果が顕著になる極低温状態の物質で何か面白いことが起こっていないかを探っているそうだ。もちろん後者は量子コンピュータへの応用を視野に入れてのことである。彼自身、標準模型などの根本原理を精緻化あるいは刷新できるブレークスルーを常に探っているわけである。「飽くことなき好奇心」と「偏見のない心」でポジティブに世界を捉え、新しい見方を探るウィルチェックは、いつも私たちに明るい見通しを与えてくれる。

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