ちくま学芸文庫

大数学者のエッセンスが詰まった「白鳥の歌」
『シンメトリー』訳者あとがき

ヘルマン・ワイル最晩年の著作『シンメトリー』。訳者・冨永星さんによる「あとがき」を公開します。

これは、Hermann Weylの著作“Symmetry”の全訳である。

原書は1952年に刊行されると、すぐに雑誌“Science”の書評欄で次のように評された。「この広範なテーマに関する短い本は、名匠の作品である。ほんのわずかな信頼すべき確かな言葉によって、わたしたちに主題の核心を見せてくれる。シンメトリーというテーマに関するこのような本や論文は今まで存在せず、さらに今後書かれるすべての本が、何らかの形でこの本に依拠することになろう……(中略)……この本は、漠然としたシンメトリーの記述から具体的なシンメトリーを経て、ついには一般的な数学的シンメトリーへと至る。これはつまり、次第に抽象度を増していくため、数学者でない人間にとってはついていくのが難しくなるということだ。しかし幸いなことにそれでもなお、割り算しか知らない人にも楽しく読めて得るところのある作品になっている」。そしてその後も70年にわたり、装幀を変えながら版を重ね、今日に至っている。

ワイルはこの本を広く人々に開かれたものにするために、自身が行ったばかりの一般向けの啓蒙講演をその土台とした。四回にわたる実際の講演では、聴衆を飽きさせないように、さまざまなスライドを用いて視覚に訴えながら、シンメトリーを巡る広範な話題を展開していった。その臨場感を保ちながら、さらに補遺として数学的な情報を加味したのがこの作品なのである。ちなみに講演自体は英語で行われ、この作品もワイル自身が英語でまとめている。

『シンメトリー』本文より。講演で使用されたスライドは本書にも多数掲載されている。

この作品はローザンヌ大学から「科学哲学に関するアーノルド・レイモンド賞」を受賞しており、ワイル自身はその下敷きとなった一般向けの講義を行うことができて、「ほんとうに嬉しかった。当時は、さまざまな考えや要求がせめぎあうその渦中で、己の分を果たした人間が長い一日をなんとか終えて、日が沈み平穏な夜が訪れようとするなか、横笛で落ち着いた夕べの歌を奏でているような、そんな気持ちだった」(1954年、ローザンヌ大学における講演)と述べている。事実本書の序文でも、プリンストン大学の当局に対して、「高等研究所からの引退を目の前にした筆者にこのような白鳥の歌を歌う機会を与えてくれたことに感謝」している。

ここで著者についてざっと紹介しておくと、ヘルマン・ワイルは1885年にハンブルク近くの町に生まれた。ギムナジウム時代に屋根裏部屋で哲学者カントに関する解説書を読み、その「空間と時間の観念性」に関する主張に大いに傾倒したという。ギムナジウム卒業後、いったんはミュンヘン大学に進むが、間もなく、ギムナジウムの校長の従兄弟であるヒルベルトという数学の教授がいるゲッチンゲン大学に移ることを決意。そのヒルベルトの講義で非ユークリッド幾何学の存在を知って、ユークリッド幾何学に依拠するカントの限界を感じるようになる。そして、(ハーメルンの笛吹きのような)ヒルベルトの笛の音に導かれ、数学という河の深みに足を踏み入れたのだった。翌年の夏休みにはヒルベルトの『数論報告』に読みふけり、「人生のもっとも幸せな数カ月間」を過ごしたという。1908年にヒルベルトのもとで博士号を取得、1913年にチューリッヒ工科大学の数学のポストを得るが、やがて第一次大戦に出征。除隊となって復職し、その後の研究素材を探すうちに、同僚のアインシュタインが1915年に発表した一般相対性理論の論文に遭遇し、すっかり夢中になる。そして早くも1917年には、この理論の重要性を踏まえた連続講義を行った。また、1927~28年の冬学期には、同僚のシュレーディンガーが他大学に転出したのを受けて、群論の講義を群論と量子力学の講義に切り替えている。その後、アメリカのプリンストン高等研究所から招かれるも、1930年にヒルベルトの後任としてゲッチンゲン大学に戻る。だがナチスの台頭を目の当たりにして、妻がユダヤ人であることから、改めてプリンストン高等研究所からの招聘を受けることを決意(この間の事情は、Institute for Advanced StudyのウェブサイトのHermann Weyl: Lifeの項に詳しい)。1933年に高等研究所に着任したワイルは、その幅広いヨーロッパ的教養と知のあり方で、創設期の高等研究所に大きな影響を与えたといわれている。そして退職して名誉教授となる1951年に、常任期間の締めくくりとして行われた連続講義から生まれたのが、この著作なのだ。

「純粋数学と理論物理学の分野で顕著な業績を残した、20世紀においてもっとも影響力のあった数学者」とも「20世紀前半の最も偉大な数学者の一人であって、多くの研究分野を開拓したことでは、他の数学者の追随を許さない」(マイケル・アティヤ)ともいわれているように、ワイルはとほうもないスケールの知の巨人だったが、そのワイルが最後にまとめた一般向けのこの掌編を自ら「白鳥の歌」と呼んだのは、決して大げさではなかった。

『シンメトリー』の前にワイルがまとめた著作は、

  • 『リーマン面』(1911~12年に行った画期的講義の内容をまとめた著作)
  • 『空間・時間・物質』(1917年に行った微分幾何学からの相対性理論への画期的なアプローチをめぐる講義をまとめたもの)
  • 『連続体:解析学の基礎についての批判的研究』(1918年に発表したモノグラフ)
  • 『群論と量子力学』(1927/28年の冬学期に行った講義の内容をまとめたもの)
  • 『数学と自然科学の哲学』(1927年に『哲学ハンドブック』に寄稿した記事の単行本化)
  • 『古典群:不変式と表現』(1939年に英語でまとめた著作)

で、すべて専門の知識がある人、あるいは専門知識に触れたいという人々を対象としていた。内容は時として数学、物理学、哲学の三つの分野にまたがることがあったが、いずれにしても一般向けの啓蒙書とは言い難く、いわゆる「専門書」だった。

しかしこれらのワイルの著作は、決して「部外者にとって無味乾燥な専門書」ではなかった。専門的な内容のそこここに、そして構成そのものに、ワイル自身の数学観、物理観、哲学観、ひいては学問観などが埋め込まれており、その部分は専門家でなくても十分楽しむことができるのだ。たとえば、「一般化や抽象化や厳密化が数学にとって有益で必要だったとしても、それによって生き生きとした学問の流れとの関連が失われてしまったのは不健全なことであって、抽象的厳密性によって編み上げられた網(ネット)は、あくまでも、海の中の真珠を採るように、本質的に単純で偉大で崇高な本来の理念をすくい上げるためのものなのだ」(『リーマン面』)という語りからは、当時の数学の流れに対するワイルの考えを読み取ることができる。

また、自分の著作についての「この本は、目の前に置かれた新しい事柄を学びたいと考える謙虚な人々のためのものであって、すでにその主題になじみがあって、手っ取り早くあれやこれやの詳細についての正確な情報を得たいと思っている誇り高く学識ある人々のためのものではない。専門のモノグラフでもなければ、初歩的な教科書でもない」(『古典群』)という記述からは、既存の分類から外れた著作をまとめることへの覚悟が窺える。ワイルはあえて議論を誘発するような著作をまとめることで、その後の展開を期待していたのではなかろうか。そこからは、ある種のロマンを持ち、一時の矛盾や批判を恐れることなく開かれた姿勢で動くワイルの姿が浮かびあがってくる。

さらに、「相対性理論とは、哲学的、数学的、物理学的思考が互いに浸透し合うことの一つの例である」(『空間・時間・物質』)という言葉からは、15歳にしてカントの時間論・空間論に傾倒し、ヒルベルトを数学の父、フッサールを哲学の母としたというワイルの関心のありようの一端を窺うことができる。

これらの著作の掉尾を飾るこの『シンメトリー』には、一般の人々に向けて語りかけているだけになおさら、そのようなワイルの人となりや従来専門書で表明してきたさまざまな考えや姿勢や理想のエッセンスが詰まっている。たとえば「哲学がもたらす幻想によってではなく数学的な構築と抽象化に導かれて、一般化を進めていく」という言葉からは、ワイルが万物のあり方への強い関心を根っこに持ちながら、その秘密を解きほぐすための手法としての数学に圧倒的な信頼を寄せていたことが窺える。ワイルにとって、自身はあくまでも哲学に関心を持つ数学者であって、数学こそが最大の関心の対象だったのだ。

ワイルは早くも1928年に『群論と量子力学』の緒言で、「群論の起源は、殆ど有史以前の歴史の彼方にその姿を隠している。もっとも古い美術作品を見れば、平面図形の対称群がすでに知られていたことがわかるのだ。それらの群の理論が決定的な形を与えられたのは、18世紀後半から19世紀のことだったが……(中略)……これまでは、群論の自然科学への最も重要な応用は、結晶のシンメトリーの記述にあったのだが、最近になって、群論が量子力学に対して根本的な重要性を持っていることが認識された」と述べているが、これがほぼそのまま本書の流れになっている。

じつはワイルはシンメトリーの概念を巡って、本文中にあるようにアメリカに移る前の1937年にウィーンで、また、アメリカに移った後の1938年にもワシントン哲学協会の第8回Joseph Henry Lectureで講演を行っている。後者の講演はワシントン科学アカデミーの機関誌に収録されており、その内容を本書と比べると、共通の話題が取り上げられている一方で、シンメトリーの豊かな世界を伝えるために、さらに工夫がこらされている。つまり本書は、ワイル自身がひじょうに大事にしてきたテーマを、それまでの経験に基づいてさらに練り上げた末に生まれたものなのだ。

ワイルはまた、「数学的な思考においては、厳密な正確さを達成することができる。その結果読者にすれば、ひどく明るく照らし出されて、すべての詳細がまったく同じようにまばゆいばかりの明晰さで目に飛び込んでくる部屋に閉じ込められ、逃げ場を失ったように感じることになる。わたくし自身は、晴れ渡った空の下の奥行きのある開かれた風景の方が好ましいと思っている。そこでは近くにあるさまざまな詳細は鋭く定義されているが、地平線に近づくにつれてそれらもじょじょにぼんやりしていく」(『古典群』)と述べているが、この『シンメトリー』という掌編から深い展望を持つ開かれた風景画としての「シンメトリー」の世界の存在を感じるのは、訳者だけだろうか。

もうひとつ付け加えておくと、ワイルは上にあげた複数の著作で、自分の仕事は必ずしもその分野で高く評価されることはないだろう、と述べている。だがそれらは、あるいは「“物理”と“数学”」、あるいは「“歴史ある不変式論”と“新しい代数”」を橋渡しすることでより豊かな展望を得ようとする試みだった。『群論と量子力学』などは、シンメトリーの概念に起源を持つ群論の高等な啓蒙書であって、その影響で物理学の世界に「群論のペスト(Gruppenpest)」と呼ばれる群論ブームが到来したという。これらの高度な橋渡しアウトリーチに対して、締めくくりとなる『シンメトリー』はさらに対象を広げた橋渡し、一般の人々へのアウトリーチであり、文字通り「白鳥の歌」なのだ。

ちなみに、『シンメトリー』の日本語訳を最初に手がけた遠山啓は、一度は大好きだった数学研究への道を断念するところまでいったが、ワイルの『群論と量子力学』(原書初版本)との出合いがきっかけで、再びその道を目指すことを決意したという。東京工業大学の教授となり、さらに民間の教育団体「数学教育協議会」を結成し、数学教育という啓蒙活動に力を注いだ遠山にとって、『シンメトリー』の翻訳(1957年)はきっと感慨深い作業だったにちがいない。

なお、今回の訳文のトーンを決めるにあたって、この著作の元になっているのが一般聴衆向けの講演であること、小平邦彦がプリンストン高等研究所ではじめて会ったワイルの印象を、「背が高くて丸顔の恰幅のよい紳士で、円満な人のよいおじさんという感じであった」としていること、1938年の「シンメトリー」の講演で一つだけ数学的な証明を紹介しておいて、「ごめんなさい。ちょっと痛かったですかね? ほら、もう歯は抜けましたよ。もうこの先は、こんなややこしい幾何学の議論は出てきませんからね」と謝るような人物であったことを考えて、「です・ます調」を採用したことをお断りしておく。

どうか読者の皆様には、このワイルの「白鳥の歌」を楽しまれますように!

 

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