単行本

ゲイカップルが家族を築いていくということ
「違う」ことは「良くないこと」とされがちな日本

社会が大きく変化していくなかで、性的マイノリティをめぐる言説もまた大きく揺れ動く昨今。この記事では、「おっさん好きのゲイ」という立場からこれからの「父性」「男性性」を考える一冊『ニュー・ダッド―あたらしい時代のあたらしいおっさん』に収録された文章を公開します。ゲイカップルが「家族」となり、「父親」となることのリアリティ、そして可能性を語ります。

日本では同性カップルが子どもを持つための制度が整備されていない

 僕は自分の人生においてほぼほぼ諦めていることがあって、それは文字通りの意味での「ダッド」……「父」になることだ。なぜなら、僕はゲイだから。いや、ヘテロ男性だって大勢、経済的な問題から「父」になるのを諦めているような時代だけれど、やっぱりそこは、ゲイであることも別のレイヤーとして絡んでくる。

 もちろん海外においては、同性カップルが子どもを迎えられる制度や法律があることは知っている。けれど、これから自分が海外に移住して、子どもを持ちたいと思っているパートナーを得て、しかもじゅうぶんに子どもを養育できるだけの収入を確保して、そしてついに「父」になる……ということをちょっとリアルには想像できない。その可能性はゼロではないけれど、とりとめなく考えているうちに、それはいつしか僕好みのイケダッドと海外で暮らす妄想(ヨーロッパの歴史ある街で大学教授をやりながら小さなダイニングバーを経営し、ときには自分もシェフとしてキッチンに立つ、かすかに憂いを秘めた心優しい髭面の中年男マリオ〔仮名〕と僕が暮らしている)にすり替わっている。つまり、リアルのリの字もないということ。

 では、日本ではどうだろう? だけどそれもまた同じくらい、僕にとってはリアルに考えられないことだというのが正直なところだ。日本では、同性カップルが子どもを持つための制度や法律は整備されていないからだ。身近な実例がないひとがほとんどだろう。僕もそうだ。

 とはいえまったく進んでいないわけではなく、2017年に大阪でゲイ・カップルが里親認定されたことは比較的大きなニュースとなった。様々な事情から家庭で暮らせない子どもを預かり養育するための仕組みである里親制度だが、その条件にはおもに「経済的に困窮していないこと」が挙げられているそうで、そのカップルが男女であるかどうかは条件になっていない。そのため、少しずつではあるが、里親制度を通して子どもを預かることを希望する同性カップルも増えつつあるようだ。

 ただし、法的な親子関係を成立させる養子縁組制度と里親制度は基本的に異なる。養子縁組資格は同性カップルに認められていないため、仮に養親となったとしてもどちらか片方しか親権を持つことはできない。現実に日本でも、たとえば別れた夫との間に生まれた子どもを同性パートナーと育てているレズビアン女性なども少なからずいるので、親権の問題などを考えると法律や制度で具体的に親子の関係を保護することは重要だ。だから僕は、自分が「父」になることをリアルに想像できないのとはまったく別の問題として、彼ら・彼女らの選択を支持したいし、まずはきわめて現実的な問題として同性カップルにも養子縁組制度が認められてほしいと考えている。

「違う」ことは「良くないこと」とされがちな日本

 けれど、自分がゲイとして「父」になることを想像できない一番の理由は……僕が臆病なゆえに、この議題が挙がるたびによく聞く「同性カップルの子どもはかわいそう」という声に怯んでしまっているからだろう。

「そんなことはない」と、海外で子どもを育てている同性カップルの実例をたくさん知っている自分は言い返したい。もちろん。けれど日本でそう信じ切っているひとたちに、実際に「親」として対峙できる根性が自分にあるのか、自信がないのである。

「子どもがかわいそう」である根拠として多く挙げられるのが、子どもがいじめられるというものだ。絶対に起こらないとは言えない。というか、いじめへと至る前段階としての「からかい」は確実にあるだろう。

 だけど、それは同性カップルの両親を持つ子どもにだけ起こるものではない。運動ができないからとか、太っているからとか瘦せているからとか(僕はこれでしょっちゅうからかわれた)、国籍が異なるからとか、家が貧しいだとか、「男らしく」ないからとか「女らしく」ないからとか……標準(とされるもの)から「違う」ことは、何かとからかいの対象になりやすい。

 肝心なのは、その段階で親だけに限らない周囲の大人たちが「違う」ことをからかうのは良くないことだと冷静に諭すことだと思うのだが、日本語の「違う」という言葉には「間違っている」という意味があることに象徴されるように、日本では周りと「違う」ことはあまり良くないことだとされがちだ。「みんな違ってみんないい」のは、本当に「みんな」が違うときで、多くのひとが同じで、少ないひとが「違っている」ときには適用されにくい。それはこの国で、ゲイとして30数年生きてきた自分の実感でもある。

 だから、そもそも「同性カップルの子どもはかわいそう」という価値観自体が「違う」ものに対する差別を含んでいるのだが、話者にとってそんな意識はないのだろう。むしろ、ある種の道徳観からそういった言葉は発せられるのではないだろうか。「違う」ことは「間違っている」ことだから。それはほとんど論理ではなく感情の問題なので、反論するのは至難の業だ。

 実際に「父」になることが男としての理想であり、完成形だと思っているわけではまったくない。そのひとがどんなジェンダーであれセクシュアリティであれ、結婚していても、シングルでも、子どもがいても、いなくても、それぞれの人生に貴賤があるわけではない。というか、わたしたちはそれぞれ大変でそれぞれ充実している自分の人生を生き抜くしかない。僕が仮にこのまま「父」にならずに人生を終えたからといって、自分がゲイであることを悲しいことだとはこれっぽっちも思わない。

 ただ、友人たちが悲喜こもごもの子育てをしている様を見て、あるいは僕の好きなおっさんたちが「父」として奮闘する姿を見て、自分が日本で生きるゲイであることで「父になること」をリアルに想像できないのが切なくなるときもある。実際に子どもを持つのが実現しないとして、僕は次世代のために何ができるのだろう?

ゲイのカップルが養子を迎えるまで

 僕がそんなゲイ的ブルー(というか、早めのミッドライフ・クライシスなのか?)に陥っていたときに読んで、ゲイがゲイであるまま「父」になる疑似体験をさせてくれた本がある。ダン・サヴェージの『キッド──僕と彼氏はいかにして赤ちゃんを授かったか』(みすず書房、大沢章子訳)だ。

イラスト:澁谷玲子

 サヴェージはアメリカではちょっと名の知れたコラムニストで、オープンリー・ゲイとして、おもにゲイのセックスやライフスタイルにまつわるあれこれを面白おかしく書く人物として知られている。『セックス・アンド・ザ・シティ』の主人公キャリーのゲイ版って感じだろうか? ちょっと違うか。……ともかく、歯に衣着せぬというか、かなり際どいユーモアを含んだ文章が特徴で、読んだ印象としては「皮肉屋なんだろうな~。知り合いぐらいの距離感ならいいけど、近くにいたらけっこう苦手かもな~」。アメリカ人のゲイの友人に「ダン・サヴェージってどうなの」と聞いたら、「うーん……、極端な発言も多いから、賛否がすごく分かれるひとだね」と教えてくれた。うん、そんな感じだ。

 そんな頭は回るが口があまり良くないゲイ・コラムニストが「父」になる過程を、非常に具体的に記したのが『キッド』だ。彼と彼のボーイフレンド(当時。のちの夫)であるテリー・ミラーが養子として息子を迎えるまでを描いていて……僕は、この本をある種の冒険譚として読んだ。ワクワクの果てに、登場人物たちが成長し、ほんのりとした感動が残る「物語」なのだ。ラストの一行には少し泣いてしまう。

 原書が出版されたのは1999年のことで、『キッド』にはおもにその前年、サヴェージとミラーが養子を迎えるまでの過程が克明に記述されている。当時アメリカでは同性カップルが養子を迎えることを認める州と認めない州に分かれており、2016年にようやく全米で合法となっている(同性婚が全米で合法化されたのが2015年)。日本に住んでいるゲイからすると、前世紀にその選択肢がすでに存在したことには驚かずにはいられない。

 サヴェージはじつに詳細に──それこそ、不妊を理由に養子を迎えると決めた多くの異性カップルに混ざって養子縁組エージェントから説明を受けるところから、内部事情や心情も含めて書き記している。前例があるとはいえ子どもを迎えるゲイ・カップルは基本的に「例外」で、「例外」だからこそ直面する問題も当然ある。

 まずクリアしなければならないのは、家族や友人にその決断を報告することだ。ふたりは基本的に家族にも友人たちにも応援されることになるのだが、一方で、ゲイの友人からも「異性愛規範に従った行為だ」と批判されることがあったことなども正直に書いている。それはゲイ・コミュニティ内につねにある政治的議論だが、それとは異なる領域で、社会には同性カップルが子どもを持つことを反対する勢力があることもサヴェージは忘れていない。同性カップルが子どもを育てることを良く思わないひとが大勢いることを。

 けれども、実際に養子を迎えるとなると、「自然に」子どもを授かることのないゲイ・カップルは多くのひとに頼るしかない。しかも、ふたりは生みの母親と直に会って、子どもを迎えてからも彼女と関係を保持する「オープン・アダプション(開かれた養子縁組)」を選んでいるので、エージェントだけでなく、何よりも子どもを産む母親とも交流せねばならない。

 ここがこの本の醍醐味である。ふたりに子どもを託すことになる若い女性メリッサはホームレス暮らしをするパンクス(ガターパンク)で、比較的裕福なカップルであるふたりがふつう関わらないような人物である。けれど、彼女と実際に会って交流するうちに、少しずつお互いのことを理解していく。ふたりはメリッサが子どもを通じてたしかに「家族」の一員になったと認識し、サヴェージにするのかミラーにするのか決めかねていた子どものラスト・ネームを最終的にメリッサのラスト・ネームであるピアースにすることに決める。

誰かの助けを借りて、前例を作っていけばいい

 僕はこの本を読んでいて、「違う」ことは「誰かに頼ること」なのだと思った。前例が少なかったり存在しなかったりするからこそ、専門家や、周囲のひとや、それまで会うはずのなかったひとたちと交流し、助けてもらうことなのだと。それは、「社会」と言い換えられるものなのかもしれない。

 僕のお気に入りのエピソードは、何かとお節介を焼いてくるサヴェージの母親が孫の誕生を大喜びし、「おばあちゃん大好き」「おじいちゃん大好き」「パパ大好き」と書かれたよだれかけを4枚送ってくるというものだ。添えられていたメッセージはこうだ。
 

おじいちゃんとおばあちゃんのよだれかけ(食事のときはいつも孫にこれをつけさせてね)と同じように、『パパ大好き』のよだれかけも二枚セットで送りたかったのだけれど、そんなセットはありませんでした。だから自分で作ったのよ。
 

 そう、前例が世のなかにないのならば、必要なものは、助けてくれる誰かの力を借りていっしょに作っていけばいい。そうやって助けられた経験があるひとはきっと、誰かを助けることも考えずにはいられないはずだ。

 多くのひとの助けを借りてふたりは無事に息子を迎え、父親と父親になった。その後2010年に、ふたりはいじめを受けている性的少数者の子どもに「より良い未来はある」というメッセージを届けるための「It Gets Better」というプロジェクトを立ち上げている。多くの著名人がこのプロジェクトに賛同してメッセージをアップロードし、やがてそれは、国外へも広がる大きなムーヴメントとなった。

 ふたりが実際に「父」になったことで、それまで以上に子どもたちに対する想いが強くなって生まれたプロジェクトだという側面はあるだろう。だけど僕はそれ以上に、「例外」であった自分たちが、多くのひとの助けを受けた経験が生きているのではないかと思う。今度は自分たちが、「違う」ことに悩む子どもたちの支えになるものを作ろう、と。

 僕はいまも「父」になることをリアルに想像できないけれど、ひとと「違う」ことを経験してきたからこそ、次世代のために何かできることがあるのではないかとぼんやり考えるようになった。もちろん、そのときには多くのひとの助けも必要だろう。

 それに、僕が「ダッド」という言葉を使って考えているのは、必ずしも子どもを実際に持つことではなくて、たぶん、より良い次世代への想像を働かせることだ。その想像は実際に「父」になることを考えるよりも難しく、だけど、さらにワクワクすることでもある。

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