「母」という言葉を見るとどんな気持ちになるだろうか。
優しかった母の手のあたたかさ、母の手作りの料理の味、老いていく母の背中。それぞれの人にとって母の思い出と、そして胸の疼きがあるのではないだろうか。それは愛なのか、憎しみなのか、後悔なのか、郷愁なのか……。
本書は母をテーマにしたノンフィクションである。
執筆のきっかけは私が出産で生死の境を彷徨って入院していた時に、「母は死ねない」という思いを抱いたことだった。それまで命は自分のものだと何となく捉えていたけれど、母になると死ぬ自由さえないのだと思い、どうにかして生き延びてもう一度わが子に会いたいと願った。
そんな時、私はかつて「母は死ねない」ことを教えてくれたある女性のことを思い出していた。その女性と出会ったのは裁判所で、彼女は息子を殺された母であった。その母は言った。わが子が殺されたアパートで黒く固まっていた息子の血を拭いた、どんなにつらくても人に頼むことなんてできない、母は最後まで血を拭かねばならないと。
母とはそれほどまでに強くならねばならないのか。私は生き残った先に始まる、母という人生に怯えた。
本書には様々な母が登場する。
どんな時でも母親なら身を挺して子を助ける、といった美化されがちな母性を否定していた女性は、二度の中絶の末に産んだ子にどう向き合って育てたか。三歳が寿命だと言われた遺伝性難病の子を続けて生み、その苦しみの末に死を選んだ母もいる。血のつながりにこだわらず、養子縁組や精子提供によって家族になった人たちもいた。五十万人に一人の難病の子を産んだ耳の聞こえない母は、それは誰のせいでもないから、わが子に悪いとも思わないし、自分を責めることもなかったと言い切る。
一方で、子どもたちから見た母の姿も語られていく。なぜあの時抱きしめてくれなかったのか、命をかけて助けに行くといってくれなかったのか、どうして自分よりも女である顔を選んだのか……。母に対する思いは、大人になっても、何十年経っても、癒えることはない。
私自身、母として子どもにどう接すればいいのか、そして娘として母となぜわかりあえないのか、いつも悩み続けてきた。育て、愛することがなぜこれほど難しいのか。私にとっては、それを知らなければ一歩も前に進めないほど切実な問題だった。
そんな母を考える旅路の中で、あるひとりの母の言葉に大きく胸を揺さぶられた。
五分間目を離したすきに娘が失踪してしまい、それから七十万枚以上のチラシを作って子どもを探し続けた母。悲しい結末を苦難の末に受け入れた時、彼女はハッピーエンドを迎えられなかった自分がもしも人に伝えられることがあるとすれば、このようなことだと語った。
「出産も、子育ても、自分の思い通りにいかない日々を積み重ねていく。その時間から、人生も人も思い通りにはできないというのを学んだ」
子どもとは母と一体化した相手ではなく、思い通りにならない他者である。その人生が時にどれほど悲しいことであっても、受け入れなければならない。そのような積み重ねが相手への理解と許容につながっていくのだと。
本書を書き終えたいま、私は母であることにそれほど大きな気負いは必要がないと思えるようになっていった。
母であっても不完全な女であり、不完全な娘であり、不完全な人間でしかない。その当たり前のことに気づいたときに、私は重荷を少しおろせた気がした。
ぜひ母である人、これから母になろうとしている人に本書を届けたい。そして、母ではなくても、女でなくても、「母」から生まれた人たちに、ぜひ手にとってもらいたい。母が背負う重荷は、母と子だけの問題ではなく、社会からの視線も関わっていると思うからだ。
本書が、それぞれの人にとって母という存在を今一度立ち止まって考えるきっかけになればと願っている。