母は死ねない

特集対談:「かくあるべき」家族の形に抵抗する(後編)
河合香織『母は死ねない』(筑摩書房)×武田砂鉄『父ではありませんが』(集英社)

様々な境遇の母親たちの声を聴き取ったノンフィクション『母は死ねない』を刊行した河合香織さんと、“ではない”立場から社会を考える意味を問う『父ではありませんが』を刊行した武田砂鉄さん。タイトルだけならば視点の異なる二冊のようにもみえますが、「家族とはこうあるべき」「人間はこう生きるべき」といった他者からの圧力、視線、呪いのような言葉たちから自由になろうという信念によって書き手二人の問題意識は通底します。人生における「べき論」をほぐす真摯な対談、後編です。


【前編を読む】

家族であっても同化はできない

武田:『母は死ねない』の帯文に、「一人として同じではない母」という表現があります。母、父、子供と、家族が図示される時って、いわゆる「仲良しファミリー」みたいなイラストが出てきます。それが見本帳のようにトップに置かれる。実際には片方の親がいないとか、親から逃げてきたとか、子供がいないとか、同性同士だとか、病気や障害を持っているとかがあるはずなのに、ど真ん中に「ザ・家族」があるってみんなどこかで思わされている。本当は一人として同じではないし、家族だったら一組だって同じ形ではないのに。

河合:その思い込みはどこからくるんでしょう。

武田:個人としては、別にそんなのは無視すりゃいいや、と思っています。でも、無視するというのも、「無視しよう」と意識しているわけです。河合さんも取材を通して「そんなのに縛られなくていいんじゃない」と感じてこられたと思うんですが、でも、「好きにやろうよ」と言って前に立ってみても、「いやでも、結局こっちの方が暮らしやすいから」みたいに戻っていくような流れがあったりもして。

河合:人に押し付けるのでなければ、暮らしやすい人はそのままでもいいんですけどね。しかし、武田さんも書かれていたように、今の社会で「あるべき家族の形」が保てなくなってきているならば、保てなくなっている原因を探るのではなくて、それ以外のあり方ではいけないのか、という方向から議論をしたいと思います。

武田:河合さんの本の最後の方で、母親である自分と子供との間に薄い膜がある、それが存在するのは別に悪いことじゃないと書かれていました。お子さんを産んだ時にはかなり近い距離にいると思っていたけれど、子育てをしたり、成長したり、いろんな方に会うことによって、この薄い膜が出てきたと。その膜があるということは「自分と子供は一心同体ではない」ということですよね。それに気づくまでには長いプロセスが必要だったということなんでしょうか。

河合:そうですね。そんなのもっと早く気づけるだろう、とも思うんですけど、自分が当事者になると自信がなかった。

武田:一回その膜ができると、それはもうずっとあるんでしょうか。

河合:膜は一定ではなく、薄くなったり厚くなったりすることがあるかもしれません。ただ、いま思うのはきっと親子関係だけじゃなくて、家族や人間関係のあり方についても、共感とか同調を求めすぎない方が自由で息がしやすい関係が築けるのではないかということです。それはつまり、互いが自分の価値観を押しつけすぎず、相手を支配しようとせず、もっと「それでいい」とありのままを受け止めることではないかと思うのです。

武田:いつからその膜ができたんですか?

河合:いつからでしょう。徐々にだと思いますが、そう思わないとやっていけいない、とどこかで思ったんでしょうね。その膜はどうしたって「ある」ってことにしないと、子育てが難しかったかもしれません。母子があまりに一体化すると、子供を潰してしまう可能性もあるのではないかと怯えました。


 

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