──河合さんは、発売前から『父ではありませんが 第三者として考える』というこの本のタイトルに惹かれていましたよね。実際に読まれて、どうでしたか?
河合:とても画期的な本だと感銘を受けました。母かそれ以外という属性で考えれば、『母ではありませんが』というタイトルでも成立するんじゃないかと思ったぐらいです。これまでにも「父である」ことで男性が自分の家庭から疎外されてしまう場合があるのではないか、と考えたことはあったのですが、そこからさらに踏み込んでいる。
武田:「母親である」ということ、あるいは「母親ではない」「母親になりたかったけどなれなかった」「母親になりたいとは考えていない」、そういった女性の立場や考えというのは、量はまだ少ないにしても様々なところで語られるようになってきていると感じています。その話を読んで共感したり、自分とは違う考えだなって思ったり、そのバリエーションが増えてきている。でも、子供をめぐる男性からの言葉というのは、あくまでも「父親です」「パパになりました」「子を持つ親として」といった「である」ところからの語りが多い。自分は今40歳なんですが、知り合いと話していると、「父親である」という立場からの語りを頻繁に聞くようになりました。一方で、自分はずっと、父親「ではない」立場です。その時、面と向かって語りにくいなっていう感覚があって……なんで語りにくいんだろう、っていう入り口からただひたすら考えた本なんです。刊行してから二か月ほどたちますが(2023年4月時点)、男性よりも女性から丁寧な感想をもらうことが多いんです。性別というくくりでは「父」とは違う立場になるわけですが、「こういうことを言葉にしてくれてありがとうございます」、と。不思議と、という言葉が正しいのかはわかりませんが、飛び越えて届いているんだなという感覚があります。
河合:「ではない」からの語りは非常に新鮮でした。女性からの方が反響が多いとは意外ですね。
武田:そうですね。「色んな生き方の人がいるよ、いていいでしょ、どうしてそれじゃダメなんだ」を書き続けている本でもあります。そういった言葉を言ったり、言ってもらったりすることがまだまだ欠けている社会だと思っています。河合さんのこれまでのお仕事は、取材を通して、実に多くの立場の方の声を聴き、様々な生き方があるのだということに着目されてきましたよね。
河合:そのように努めてきましたが、「父ではない」ということについて男性がそれほど圧力を感じているのだとはこの本を読むまで気づいていなかったと反省しました。
武田:とはいえ、この本にも書いた通り、自分自身はその圧で潰されるようなことはないんです。それはやっぱりこの社会の仕組みが男性向けに設計されていて、「違和感がある」とかその程度で乗りこなせるものだから、これまで語られてこなかったということなのでしょう。自分は父親ではない。だけれども、男性であるという優位性が同時並行で存在している感じがあります。
河合:二重構造になっているんですね。
武田:『母は死ねない』では、母親たちに対する「かくあるべき」という社会的な要請に河合さんご自身も苦しめられたと書かれていましたし、取材をされた女性たちの中にも、そういった苦しめられ方をされている母親がたくさん出てきました。父親についての「かくあるべき」と母親についての「かくあるべき」では、背負わされるリュックの重さが違うと思うんです。ただ、「父親ではありません」でも、「父親である」でも、なんらかの重石にはなる。そこは単純比較をしてどっちがいい・悪いということじゃなくて、それぞれに背負わされるものがあるっていうことなんだろうと思うんです。
河合:女性、特に母親が背負っているものは実際に多いとは思います。それは社会からの視線によっていつのまにか背負わされているものだったりもします。そうするうちに母親が子供を囲い過ぎ、結果として男性を疎外してしまうような場合もあるのかもしれない。社会からの視線の圧力を考えたとき、女性だけが被害者になるわけではなくて、男性が子育てに深く参加できないというか、主体的になれないようなそもそもの社会の構造があるからこそ、母親と父親の重石がアンバランスになることもあるのかな、と感じました。