●ビリー・ブラッグとの出会い
松本 ところで、中川さんはニューエスト・モデルをつくったのは何歳でしたか?
中川 1985年、19歳の時。16の頃から大阪・難波のロック喫茶の常連で、学校が終わると、毎日のようにロック喫茶に通ってた。ローリング・ストーンズやザ・フーのようなオールド・ロックが大好きで、ロック喫茶でしか安価でロック・ヴィデオが見れない時代。そこで上の世代から、ひと通り悪いこと、知らなかったことを教えてもらう(笑)。高校を卒業した頃、パンク・ロックや、シンガーソングライターのビリー・ブラッグの音楽に惹かれて歌い始めるんよね。それまでは単なるギタリスト。16ぐらいからライヴハウスで活動し始めたんやけど、19ぐらいの時に無性に歌いたくなって。上の世代のデカダンスなロックとは違う、自分たちの世代のなにがしかをつくりたいなと思って。その頃ちょうど、ザ・ジャムやザ・クラッシュ、ビリー・ブラッグの音楽に引き寄せられていって「俺も歌おう」と。で、バンドの名前はニューエスト・モデル(最新型)。モハメド・アリが自分のことをグレイテストって言う感じの大風呂敷やね(笑)。80年代後半にインディー・ブーム、バンド・ブームがあって、ニューエスト・モデルは89年にメジャー・デビューすることになる。
そういう中で、次は徐々に自分たちの音楽に疑問を持ち始める。「これでいいんか? 来日する欧米のミュージシャン、なんか偉そうやな。むかつく。植民地扱いしやがって」みたいな(笑)。世界にない、自分たちの音楽をつくりたい。こいつらにできない、俺らの音楽をやりたいなと。で、1993年9月、ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴが同時に解散して、合体するかたちでソウル・フラワー・ユニオンができた。
1993年といえば世は渋谷系、ワールドミュージック・ブームもある程度定着してた頃。タワーレコードやHMVのような外資系のCDショップで、それこそ1500円ぐらいで世界中の音楽のCDが買えるようになる。俺は大喜びで、世界中の音楽を聴きあさった。そんな中、「コンテンポラリーなトラディショナル音楽をつくりたいな」と思い始めて。その頃、シカラムータの大熊ワタル君と出会ったんやけど、当時、彼ともそういう話ばっかりしてたね。大熊君のことは知ってるよね?
松本 ええ。
中川 シーサーズっていう、沖縄民謡をやったりする俺よりちょっと上の世代の女性たちがいて、そこのバックバンドに大熊君とかシカラムータのメンバーがいて。93年12月、日清パワーステーションでのソウル・フラワー・ユニオンのライヴにゲストとして参加してもらって、そこから彼らと仲良くなって。時代が時代やったから、パンク・ニューウェイヴ世代の俺らがいかに民謡・トラディッショナルミュージックと切り結ぶのかが、大きな命題でもあった。
ビリー・ブラッグは80年代のサッチャー政権の頃、反サッチャイズムの運動とリンクしながら音楽をやってて。彼は当時けっこう売れてて、日本盤がちゃんと出るようなアーティストで、85年頃から頻繁に来日するようになった。俺は20代前半の頃、スタッフがいない隙に楽屋に忍び込んで、英語は喋れないんやけど、「ナンバーワン・ジャパニーズ・ロックンロール・バンド」とか言ってニューエスト・モデルのソノシートを手渡してる(笑)。で、そのビリー・ブラッグと『ミュージック・マガジン』(92年8月号)で対談した時に、対談後のよもやま話で、ビリーが「日本の音楽はアメリカナイズされすぎてて、最悪や」みたいなことを言った。俺はそれを聞いて「お前ら、500年前にマゼラン、コロンブス以降、何ずかずか土足でアジアに上がり込んできてんねん」って言ったら、彼は大爆笑(笑)。当時はまだ20代半ばで血気盛ん。でも「やっぱり、そこからやらなあかんな」と思って。
その頃ちょうど沖縄民謡やアイヌ民謡、朝鮮民謡が自己内ブームになってた。バンドがソウル・フラワー・ユニオンっていう名前に変わってからは、ロックに東アジアのトラディショナルを混ぜるということをやり始めて。その矢先に阪神・淡路大震災が起こって、「三線とかチンドン太鼓を使って、避難所を回らへんか?」という話になって。
対談した時、「ビリーの曲、いつか日本語にしてカヴァーさせて」って言ったら、「歌詞は変えてもいいけど、メロディーだけは大事にしてね」って言われて。「ああ、面白いこと言うな」と思ったんやけど、95年以降避難所回りで忙しくなって、そのことをすっかり忘れてた。で、去年、イギリスから『パレードへようこそ』っていう映画が入ってきたんですよ(マシュー・ワーカス監督、2014年)。この映画のエンド・ロ―ルで、ビリー・ブラッグの「There Is Power In A Union」がガーンとかかる。俺は映画の中で3回泣いてるのに、最後にこれがかかった時に「ずるい! 最後、これかよ!」みたいな感じで(笑)。そこでふと彼との約束を思い出して。俺はビリーの曲を日本語にするって約束したのに、してなかったな。そうや、今こそこれをやろうと。で、許諾を取って、ソロアルバム『にじむ残響、バザールの夢』に収録した。
●抗議と文化、そして生活圏をつくる
中川 2011年以降、俺にはガチの怒りっていうテーマがあって。さっき「あまりカルチャーがないほうがデモにはあらゆる雑多な人が参加しやすい」という持論の話をしたけど、とはいえ、人間と人間は出会う。それぞれマヌケな存在に過ぎない。どいつもこいつも、服をひん剥いたら単なるホモ・サピエンス。雑多な者たちが暮らす世界で、雑多な文化と相まみえながら、喜怒哀楽をもってして切り結んでいくしかない。
松本 やっぱり、デモの時も全部あるのが一番いいですもんね。それだったらみんな、一番やりやすいところに行けるし。
中川 松本君がやってることは怒りで転覆させてやるというスタイルじゃない。ある種、喜怒哀楽を立ち昇らせる、音楽的な側面がある。
松本 でも大事があると、どうしても怒りが出ちゃいますけどね。原発の時もそうだったし。
中川 基本的に怒りってすごく大事。怒りが世の中を変えてきてるわけであって、それがなかったら、人間、いまだに中世をやってたと思う(笑)。
松本 瞬発力で悪い奴をこらしめたいなと、すごく思って。それがひと段落したところで、いろんな人たちと仲良くして交流を持ち、生活圏・文化圏をつくっていく。それでまたなんかあった時、「ふざけるな」って全員で怒れる。そういう環境をつくれたら、勝てる時が来るのかなと思います。 (おわり) 2016.8.8