世界マヌケ反乱の手引書刊行記念

マヌケ反乱も音楽も国境を越える【後編】
『世界マヌケ反乱の手引書――ふざけた場所の作り方』刊行記念

世界マヌケ反乱の手引書――ふざけた場所の作り方』刊行記念トーク後半です。

 自分の生活の中で「場所づくり」をしていくことの重要さ、デモとカルチャー、音楽について語られています。

●場所づくりの面白さ

松本 場所づくりは、国によってすごく特色があるのが、また面白くて。たとえば香港は面積が狭くて人口密度が高い。そして資本主義のすごい圧力があると同時に、中国はすごい管理社会でもあるから、両方から挟まれてすごいことになってて。だからみんな、うまく隙を見つけてる。ビルの隙間に入っていったら、変な場所があったりして。その一方で、台湾ではみんなノビノビしてて、浜辺に変なものを建ててみたりしてる。みんな、それぞれにうまいこと考えるなと思って。

 海外でも日本でも1回つながると、またその知り合いが出てきて仲良くなったりする。あれは面白いですよね、どんどん輪が広がっていって。飲み歩いてるだけでも、世界中に知り合いができるというか。

中川 世界各地に同じニオイの奴らがいる。はみ出し者たちがアジールを作って集まる。で、次は、その辺の、いわゆる「普通」の人たちをどういう具合に巻き込んでいくか。

松本 自分には店があって、そこに近所のおばちゃんとかも来る。高円寺で最初に原発反対のデモをやった時も、近所のおばちゃんとか田舎から出てきた若い奴らとか、店で普通に買い物した人が参加してくれたりした。ああいうのはすごくいいなと思います。純粋な気持ちで参加してくれるわけだから。

 高円寺で1万5000人ぐらい集めたデモの翌日、配達があったんですよ。おばあちゃんが棚を買ってくれて、それを家に届けに行ったら娘さんが出てきて。「これ、おばあちゃんに配達なんですけど」って言ったら、「うちのおばあちゃん、昨日久しぶりにデモに行って頑張っちゃって。腰痛めて上で寝てるから、私が受け取っておきます」と。それ、すごく嬉しかったです。「ああ、デモに行ったんだ」と思って。その頃は毎日、お客さんに「デモやるんで来てください」って言ってたんですよ。そうしたら、本当に来てくれる人もけっこういて。思いもよらないところから出会ったりするので、すごく楽しいですね。

 
 

●デモとカルチャー

中川 2011年4月、「素人の乱」が反原発デモをやり始めて、1万5000人集めた。数字を覚えてるぐらいやから、俺の中で、相当インパクトがあったわけで。レコーディングの締め切りが迫ってたんやけど、それどころじゃないという感じでUstreamを見てて、「凄いなあ」と思って。でもカルチャーと抗議が曖昧なかたちで共存してると、そこからまた、いろいろな問題が起こるということも経験したと思う。カルチャーはカルチャー、抗議は抗議で分けたほうが日本社会には合致するという側面も出てくる。

 たとえば俺が関西で、反原発デモに行く。別に知り合いがいるわけでもないデモに行って、そこで下手くそな替え歌とかを延々聴かされ続けたら、俺は途中で帰る(笑)。「カルチャー要らんし。俺は怒りに来てる」と。この問題はあった。もちろん原理的には、なんでもありなんやけど、でかい大衆運動にするんやったらそこは詰めたい。人を集めたい、と。カルチャーが入ってくると、相当好みが割れるし、俺の場合、音楽に即して言えばある程度のクオリティーを求めてしまうから、シンプルに、無色透明にやりたい、と。今まさに、原発止める! 安倍政権を止める!というテーマを掲げて、雑多な人間の怒りをデモという形で表現するのであれば、文化臭は薄いほうがいいとは思ったね。もちろん、デモ自体には、あらゆる種類があってもいい。「鍋闘争」も全然あり(笑)。

松本 僕も、それは透明なほうがいいと思ってて。高円寺でデモをやることになった時、すごくいろいろな案が出たんですよ。主張にしても、みんなちょっとずつ温度差があるから「原発をなくそう」というメッセージだけにして、あとは自分の責任で勝手に主張してくださいということにして。音楽も結果的にはすごくいろいろなものが入ったんですけど、「音楽で変えよう」というのはなしにして。何をやってもいい。その代わり、自分なりの表現をしてくれ。そう呼びかけたら、結果的にああなったんですよ。

中川 それが大きくなってずっと続いていったらすごいよね。

松本 でも、続くとだいたい型ができますよね。

中川 そこが一部の人たちの居場所になっていって。

松本 「デモに行ったら、音楽やらなきゃ」みたいな感じになると、絶対につまらないじゃないですか。

中川 あの後、ドラム隊はすごい発明やなと思った。打楽器だったら、誰でも参加できる。音楽と異議申し立ての原風景的な光景が出現したと思った。ただ、物々しいおっさんが「がんばろう」とか「We Shall Overcome」をへたくそなでかい声でガナってたり、変な着ぐるみが踊ってたりしたら、そこにいるのがつらい人も出てくる。俺とか(笑)。まあ、もちろん、めちゃくちゃでかいデモやったら、何個も梯団があるから、音楽もありということになってくるんやけど。

松本 それはすごくいいと思う。こういう人はこっち、こういう人はこっちという感じで。

中川 ある程度でかくなると、そうなるよね。私は一番最後の梯団に行こうとか、俺は前のほうの梯団に行こうとか。俺は何も決めつけてるわけじゃなくて、音楽をやってるから、ちょっと考えさせられたんよね。ミュージシャンで、80年代から反原発を唱えるパンクロッカー。2011年3月に福島で事故が起こって、周りに「中川は今度、どう行動するんだろう」と思われたり。自分でも、そういう立場であることは当然自覚してたし。俺は2011年以降、頻繁に東北に行っては避難所を回って、民謡や演歌を歌ったりしてた。そこでも反原発運動の動きが気になるから、素人の乱やTwitNoNukesのデモをUstreamでチェックしてて。で、頭数としてデモに参加する、抗議の現場に歌いに行ったりするのはやめるという結論に達した。それは、反原発運動が大きな大衆運動になっていく過程での、当時の感覚ですね。

松本 今でもけっこうデモに行ったりするんですか?

中川 今でも頭数として参加してるよ。

●最悪な世の中にある希望

松本 中川さんのソロアルバム『にじむ残響、バザールの夢』を聴かせていただいたんですけど、現場に行ってらっしゃる感じだなと思って。特に弾き語りの曲はそうですね。僕はロック好きなので、弾き語りの音楽をあまり聴かなかったんですけど、あれはすごく詞の内容が入ってくるじゃないですか。理不尽な世の中にたいして「冗談じゃない! これはいかん!」という気持ちがすごく伝わってくるというか。現場に行っていろいろなものを見たりしているから、すごく強いメッセージを発信できるんじゃないかなと。

中川 俺はふらっとどこかに行くのが好きで。ミュージシャンや業界人と飲んでるだけの毎日も嫌やし(笑)。根本的に、ふらっと雑多な人がいるところに行くのが好きなんよね。

松本 なんか、そういうことをすごく感じるというか。普通、世の中に対して物申す感じのミュージシャンの曲でも、歌詞の内容はけっこうふわっとしてることが多いじゃないですか。それと比べて、中川さんの詞はすごくリアルな感じで。

中川 まあ、歌詞を書くのは難しいんよね。プラカードみたいな歌詞の曲を書くのも嫌やし。

松本 でも中川さんの書く歌詞って、怒りをぶつけて「ふざけんじゃねぇ」という感じでも、なんかすげえ嘆いてるわけでもない。すげえ最悪な世の中にある、すげえ希望みたいなものについて言っていて。

中川 あんまり嘆かないから(笑)。

松本 そこがすごくいいと思うんです。かといってやたらと「未来は明るすぎる!」みたいに超ポジティヴでもなくて。

中川 超ポジティヴでもないから(笑)。

 

●「こんな面白い奴がいたのか!」

松本 「素人の乱」ではたまにデモもやったりするんですけど、基本的にやってるのはお店・場所づくりで。全然知らない人たちがどんどん集まる場所をつくって、人のつながりを広げる。「こんな人いたのか」という出会いがあって、お互いにどんどん仲良くなっていく。そういうのがいいなと。

中川 松本くんは人間が好きやね。最初に会った時に、すぐにそう思った。

松本 その発見がすごく面白いんですよ。「こんな面白い奴がいたのか」と。

中川 人間、面倒くさくなったりしない?(笑)

松本 もちろんそれはありますよ。それはうまく逃げたりするんですけど。

中川 町内会のおっさんと毎日やり取りするとか、俺には考えられないこと。めんどくさい(笑)。俺は子どもの頃、ずっと転校生で。親が新聞記者やったから、2年おきぐらいで転校を繰り返してて。その結果、地域のしがらみをうまいこと処理してやっていく、っていうようなことができない大人になっちゃって、「もうすぐ引っ越すねんから、言いたいこと言ったれ」というような性格になってしまいました(笑)。だから、この本を読んで、松本君、すごいなって。

松本 そういうことをやるようになったのは、店を開いてからですよ。それまでは大学生で、外で「鍋闘争」みたいなゲリライベントをやったりしてたからけっこう無責任で。店を開いてから、「やっぱり地域からは逃げられないな」と思って。嫌だけど面倒くさい人とも接して、なんかしなきゃいけないんだろうなと。

●雑多な人々がまじわる場所

中川 なんで店をやろうと思ったの?

松本 僕は法政に行ってた時、学生運動みたいなのに参加していた。大学を出てからも社会的なところに関わりつつ、ふざけたイベントをやったりしてたんですけど、やっぱりちゃんと人が集まる場所、いつでも来れる場所がないとダメだなと思って。それぞれの場所で会う人たちって、なんか似てるんですよね。デモで会うのはたいてい、社会に対する関心が高い人たちだし、音楽の世界だったらやっぱり音楽好きばかりで。だから、誰でも来る可能性がある場所っていうのを開きたいなと思いました。特にリサイクルショップだと、田舎から出てきた若者がテレビとか冷蔵庫を買いに来るじゃないですか。そこで「ビールでも飲みましょう」という感じで仲良くなったりして(笑)。

中川 松本君、今、40前後でしょ。当たり前のように喋るけど、その世代でそういうことを考えるところが変(笑)。

松本 みんな驚くんですよ。「ビール、いいんですか?」みたいな感じで(笑)。

中川 なんで「鍋闘争」とか、そういう異議申し立てを始めようと思ったの?

松本 90年代の法政大学って、すごく自由だったんですよ。それが90年代終わりから2000年前後ぐらいにかけて、どんどん窮屈になっていって。大学はその頃から、企業に役立つ人材を育成する場所に変わっていった。それだと新しく入ってきた人も、いい会社に入ることしか目指さなくなっちゃうんじゃないかと。そんなつまらない世の中になったら嫌だなと思って。それで大学で「法政の貧乏くささを守る会」をつくって、訳のわからない奴がいっぱいいる状態を何とかつくりだして、「鍋闘争」とか変なことをやったりしていた。

 大学を卒業して社会に出た2000年頃、ちょうど石原慎太郎が都知事をやってた。街がどんどん浄化され、外国人とかをすごく侮辱しているのを見ていて、街も雑多でなくなったらどうなるのかなと思って。そういうことに対する反発が一番大きいですね。