ちくま文庫

解説 感性を哲学する

稲泉連『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)に伊藤亜紗さんが解説を書いてくださいました。宇宙体験とはどういうものなのか?を伊藤さんならではの視点から読みといています。ぜひご覧くださいませ。

世俗化された宇宙体験
 秋山豊寛が日本人初の宇宙飛行士として宇宙船ソユーズに乗り込んだのが一九九〇年。それから三十年以上の月日がたち、宇宙はかつてのような「はるか遠くの夢の場所」ではなくなった。すでに火星移住を前提にしたベンチャー企業がいくつも生まれているし、宇宙旅行を専門とする旅行会社も誕生、同時に各国は宇宙軍を創設している。三十年前に遠いあこがれだった夢の場所が、出張の行き先になり、人気の観光地になり、戦場になりうる時代に、私たちはもう片足をつっこんでいる。

 この間、本書執筆時までに合計十二人の日本人が宇宙を訪れている。彼らはそこでいったい何を見、何を経験したのか。本作は、いわば「手あかがつく前の宇宙体験」について、実際に宇宙に行った宇宙飛行士たちの語りをもとにまとめた本だ。つまり、今しか出せない本。しかも自分だけの感覚を言葉にするという困難な語りを、十二人全員から引き出している。職場環境によっては分刻みでスケジュールが管理されている彼らの約束をとりつけ、限られた時間で深い話を聞くことは、並大抵の忍耐力では実現できないものだったろう。その意味でも唯一無二の、貴重な本だ。

 そんな本書を二倍楽しむために、ぜひとなりに置いておいてほしい本がある。それは、日本人がまだ宇宙に行く前の一九八三年、立花隆が著した宇宙体験記の金字塔『宇宙からの帰還』である。立花の本を参照していることは、稲泉も本書の冒頭と末尾を含む随所で言及している。『帰還』は、本書の最大の参考文献にして究極の解説書である。あるいは本書を、『帰還』の三十六年ぶりの改訂版と位置づけるべきなのかもしれない。いずれにせよこの解説も、まずはこの二冊の本を引き比べることから始めてみよう。

 共通点は明確だ。どちらも、宇宙に行ったことのない人間が、宇宙に行ったことのある人間にインタビューをし、その語りをもとに宇宙体験について記したノンフィクションである。インタビューを敢行した宇宙飛行士の人数は、どちらも十二人。そして何より「自分も宇宙体験をしたい」という強い思いが執筆の動機になっている。もっとも、「宇宙体験をしたい=宇宙に行きたい」という単純な話ではないかもしれない。地上にいながら宇宙を追体験できるというノンフィクションの力を知っているのも彼らだからだ。

 だが実際に読んでみると、二つの作品の印象はだいぶ異なっていることに気がつく。まず印象的なのは、『帰還』においては、宇宙体験が宗教的な意味合いを帯びて語られていることだ。立花が執拗にこだわるのは、宇宙に行くことが、「神の啓示」「意識の変容」といった言葉で語られるべき神秘的な経験である、ということだ。実際、当時の宇宙飛行士の中には、帰還後に伝道師になった者もいるという。

 これに対し、本作においては、そうした宗教色は薄い。稲泉を通じて語られる宇宙体験は、「コーヒーを飲んでいる間に大西洋を渡ってしまう」(油井亀美也)という素直な驚きや、「地球に帰ってからも窓の外に行けるような気がした」(古川聡)といった身体感覚の変容、あるいは「地球の延長線上にある普通の場所」(金井宣茂)という新世代のドライな感想だ。ひとことで言えばそれは、神なき宇宙の経験、世俗化された宇宙体験である。五感によって世界をとらえ、身体をもち、生活がある人間の出来事として、宇宙が語られるのである。

 もちろん、立花はアメリカ人に、稲泉は日本人にインタビューをしたという人種の違いは大きい。日本にも独特の死生観や自然観があり、ある程度共有されたスピリチュアルな感覚は存在する。しかし、それを信仰として自覚したり、人前で明示的に語ったりする習慣はあまりないからだ。

 ただし、全てを人種的文化的背景に還元するのは正しくない。というのも、立花がインタビューしたのは、冷戦期に宇宙に行った宇宙飛行士だからである。当時、アメリカとソ連は莫大な費用をかけて競い合うようにロケットを飛ばしており、宇宙に行くことはそれ自体、国の威信と技術力を賭けた国家的なイベントとしての意味を持っていた。今とは時代が違うのだ。

 アメリカにとってソ連との戦いは、そのままキリスト教と無神論コミュニズムとの戦いでもあった。本書で紹介されているとおり、「地球は青かった」で知られるソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「天には神はいなかった。周りをどれだけ見渡しても神は見当たらなかった」という挑発的な言葉も残している。この言葉に抗って、実際に「神の座」である天空にのぼり、神がそこにいることを示すこと。それもまたアメリカにとっては重要な宇宙飛行の目的だったのである。

 実際、信仰心の篤さが宇宙飛行士の選抜に影響を与えていたという見方もある。立花によれば、アポロ7号に登場したウォルター・カニンガムは「アメリカの大衆は(そしてNASAも)、キリスト教の堅固な信仰をもっていない宇宙飛行士を空に打ち上げることにいい顔をしないだろう。何しろ、宇宙飛行士たちは天高く、いわば、神様のオフィスの近くにいくわけだから」と述べている。もっとも、実際には信仰心のない宇宙飛行士もいたようだ。しかし、それもなるべく公にならないように配慮されていたという。


 加えて、宇宙経験そのものの違いもある。地球から約三八万キロ離れた月に行こうとしていたアポロ計画時代とは異なり、本書が扱う宇宙飛行は、地上わずか四百キロメートルの低軌道を周回する形である。月に行こうとすれば地球から遠ざからざるを得ないが、低軌道なら地球までの距離は変わらない。しかも地球はすぐそこ、窓いっぱいの大きさで見えている。「すぐにでも帰れる安心感」(大西卓哉)があるから、かつての「青いビー玉」のような幻想はいだきにくい。代わりに、夜になると地上の照明によって明確になる国境線や、風向きによって変わる砂漠の色合い、あるいは子育てを手伝えなくて申し訳ないという家庭の事情が、目に飛び込んでくるようになったのだ。

 神との関係で人生の意味の変化を語る立花の宇宙体験から、宇宙と地球と自分のリアルを五感で感じ取る稲泉の宇宙体験へ。二作のあいだに、この三十年余りの、宇宙と人類の関係をめぐる、技術的、政治的、文化的意味合いの変化が詰まっている。まずはその隔たりを実感することが、本書を読む醍醐味だろう。
 
感性の歴史
 だが宇宙の体験について語ることは、本質的に困難な営みだ。なぜなら、ほとんどの人がまだそこに行ったことがないのだから。卑近な例で恐縮だが、それはたとえば、ミョウガを食べたことのない外国人に、ミョウガの美味しさを言葉で説明するようなものだ。インタビューに応じた宇宙飛行士たちの苦労がしのばれる。

 実際、本書に登場する宇宙飛行士たちの言葉は必ずしも雄弁ではない。「あの壊れやすさを感じさせるがゆえの美しさは、やはり言葉にはできないものであり続けています」(油井亀美也)。「見たことを表現したいのに使える言葉は限られてしまう」(野口聡一)。読んでいてもどこか寸止めされ続けているような感覚があるし、彼らのなかにもすっきり表現できないもどかしさがわだかまっているように見える。

 詩人や小説家であれば、もう少しうまく宇宙体験を言葉にできるのではないか、という意見もある。確かに、エンジニアや医師として訓練を受けた理工系の彼らよりも、言葉をあやつることを生業とする人々であれば、もう少し楽に、表現することができたかもしれない。けれども、本質的な困難は変わらないだろう。人類の多くがまだ経験していないことを、どうやって言葉にするか。宇宙の経験について伝えるための道具を、人類はまだ作り途中なのだ。

 思えば人間はこれまで、さまざまなフロンティアを開拓してきた。その功罪はあるとしても、新たなフロンティアに出会うたびに、人間はまだ誰も言語化したことのない感覚を味わってきた。フロンティア開拓の歴史は、そのまま感性の歴史でもある。

 たとえばヨーロッパ大陸の中央にそびえるアルプス山脈。M・H・ニコルソンが『暗い山と栄光の山』で詳述しているとおり、一七世紀までのヨーロッパの人々にとって、山は自然の脅威に満ちた恐ろしい場所であり、わざわざ立ち入るような場所ではなかった。特にアルプスのように高い山々は、醜くてじゃまな突起物として忌み嫌われ、詩人たちも「地球の顔のイボ」とか「地球上のゴミを掃き寄せたかのよう」とか形容していたのである。

 ところがイギリスの裕福な貴族の子弟がヨーロッパ大陸に旅行をする「グランドツアー」が流行するようになると、風向きが変わってくる。そもそもイギリスには高い山がない。そのような土地で育った人たちが、イタリアに行く道中で氷河をたたえた山岳地帯に立ち寄ると、その経験を「喜びをあたえる恐怖」「苦悩からの解放」といったこれまでとは違う言葉で語り始めるようになったのだ。その影響をうけて一八世紀になると山の風景を見に行く旅行が流行、一九世紀になるとフリードリッヒが『雲海の上の旅人』に描いたような「崇高」の感性が市民権を得るようになる。

 技術がもたらしたフロンティアもある。たとえば二十世紀初頭における飛行機の登場。「空から地面を見下ろす」という視点はすでに気球が提供していたが、飛行機はそこにスピードを付け加えた。自動車も徐々に一般化してくる時代である。イタリアに生まれた未来派は、「咆哮する自動車はサモトラケのニケより美しい」と豪語し、それまでの人間が経験したことのなかった、機械がもたらすスピードと圧倒的な力を賛美した。機械とともに生まれた、新たな美。ただし、その感性が行き着くところとは、戦争の美だったのであるが。

 宇宙との出会いも、人類にとっては間違いなく新たな感性の出会いとなるだろう。今後ますます多くの人が宇宙に行くようになるにつれ、人類の感性の歴史に、新たな一ページが書き加えられることになるはずだ。新たなページをめくる、その最初の力が、おそらく本書だ。

 その意味で個人的に一番気になったのは、野口聡一の言葉である。彼は船外活動の折、つまり宇宙船の窓越しにではなく、ダイレクトに宇宙に浮かぶ地球を見た折に、地球が自分に何事かを語りかけているように感じたそうだ。そして、本来であれば地球の一部である自分が、それを外から見ていることを不思議に思ったという。「生死のせめぎあいの世界からどうして自分が外れているのかを体が納得していない」。体が納得していない、というのが宇宙らしいなと感じた。

 私自身は、いまのところ積極的に宇宙に行きたいとは思っていない。たぶん、生きている自分の体を地球からもぎとって、宇宙空間に放つのが怖いのだ。でも、かつてアルプスに出会ったイギリスの人々が、自分の身をも脅かす自然の脅威に恐怖を感じつつその先に喜びを見つけたように、地球からもぎとられる恐怖の先にも、何らかの快感があるのかもしれない。野口の言葉はそのことを予感させる。宇宙飛行士の言葉を手がかりに、自分の感性の未開領野を開拓することもまた、本書を読む醍醐味だ。