○泰明小学校の周りを歩く
お昼に、泰明小学校前に集合。
蔦が絡まる瀟洒な外観の校舎は、関東大震災の復興事業の一環で建てられたもの(昭和4年完成)。変わり続ける銀座の街中にあって、そこだけ時間がとまったかのようです。
校庭では、昼休み中の子どもたちが元気に遊んでいます。
小沢さん「ときおりここを通っても、シーンと静かな午後の校庭だけれど、今日は子どもたちが走り回っていて『やっぱり賑やかなんだ』と安心したよ。ぼくのころは子どもが800人以上はいた。1学年が3組で1クラスが50人近いもの。いまは総勢300人ぐらいなら、教室はガラガラじゃないの。中学生のころは、銀座にくれば母校だもの、ちょっと覗いたりしたけれど。それ以後は、まったく入ってないね」
まずは、学校のまわりをぐるっと回ってみることに。小学校に隣接している数寄屋橋公園を通ります。
小沢さん「小学校の脇に小公園をくっつけるのが、震災後の復興小学校のパターンだね。災害時の避難所の役割もあったんでしょう。校舎の裏がいきなり堀割だった。廊下の窓から見おろして、すぐそこのところ。小公園に公衆便所があって、そのまま(排泄物を)堀に流してたんだ。ときどき事件があって、赤ん坊の屍体が見つかった。公衆便所で産んで、そのまま流したんだね。それが引き潮で浅瀬に現れる。在校中に二度あったな」
○つづいて校舎へ
校舎の周りをぐるっとまわって、正門口にもどってきました。そして、ついに学校の中にお邪魔します。
小沢さん「下駄箱の置き場がここ(正門)と、校庭の隅のほうと、2カ所あって、低学年が校庭のほうだったか。そっちへは細い路地と、砂場やブランコの遊び場を抜けて入るんだ。蓋つきの下駄箱が、それぞれ決まっていたのかな。6年生にもなると、女の子の下駄箱にラブレターを入れるなんてあったから」
小沢さんは、1940年の卒業以来はじめて、76年ぶりに校舎の中に入りました。今回案内してくださる副校長(当時)の村上先生と校長室で少し歓談します。
小沢さん「ここは職員室だったね。当時は校長室は2階にあった。敗戦の年の1月の空襲で爆弾が3発命中して、1発が不発で、2発がここまで貫いちゃった。その後の空襲は焼夷弾が主なんだが、はじめは爆弾だった。学童疎開で男の先生たちはそちらへゆき、低学年の子たちもその日は土曜日で帰っていて、女の先生たちがここにいた。それで4人の先生が亡くなったんです。殉職だね」