単行本

そのTシャツの捨てられなさ
都築響一編『捨てられないTシャツ』

PR誌『ちくま』7月号よりほしよりこさんによる『捨てられないTシャツ』(都築響一編)の書評を転載します。 「NIKE」ではなく「MIKE」のTシャツを着たおやっさんのいいお話です。

 消えものだな、と思う。Tシャツは基本的には消えものとして存在するのだと、この本を読んでふと感じた。それはイメージを載せられメッセージを伝えようとするけれど作った人と着る人とそれを見る人との感じ方は元の意図からどんどん離れる。
 自分たちがいなくなっても残そうとして作られた表現は野暮ったい。貴重な文化は時代が変わっても大切に残していかねばならないとされるが、ある側面でそれはとても野暮なことだと思いませんか。だから作者がだれかも分からない壁画やいずれ建物の寿命とともに無くなる運命であるにもかかわらず、とてつもなくカッコいい落書きに美学を見出してみたりするわけです。
 消えもののTシャツの格好良さは、モード界が切磋琢磨する必死さを野暮なことだと気付かせる、あの「裸の王様」の「王様は裸ん坊だね」という子どもみたいな、ちょっとしたどうしようもなさがあると思います。
 ところがそれが捨てられないことの背景よ。
 それぞれの捨てられないTシャツにこめられた現実のできごとは、まことにカラフルで微笑ましいものもあるが、あのTシャツくらいしか買えなかった自分が今はこのようになりましたというようなサクセスストーリーはほとんどなくて、概ねどこかかっこわるかったり情けなかったり、とほほとする話が多いように思う。気取ってみたところで人が着ていない状態のTシャツの形は、このように改めて見るとそもそもなんだかしょんぼり感がつきまとうし、プリントの内容がラグジュアリーであったりすると尚更アイロニックな意味が拡大されるようにも感じる。
 エピソードの中にはかなり凄まじい話もあり、読んでいると社会にも世間に対しても、怒りがこみ上げ、もはやそれについての自分の無力さや絶望すら感じることもあった。そのような時、彼女の捨てられないTシャツにこもった健気さが胸に沁みる。それは私にある光景を思い出させるのです。
 ある秋の日、車を運転して帰宅途中に私は信号待ちをしていた。横断歩道を渡る人たちをぼんやり眺めていると自転車をこぐ初老の男性が目に留まった。きっと仕事の帰りだろう、紺色のジャンパーにグレーの作業ズボンと長靴という出で立ちである。西陽を暖かく受けて道路をゆらりと横断するそのおじさんが着るジャンパーの胸の部分に「MIKE」という文字を見つけた瞬間、私は目頭が熱くなった。多分「NIKE」をもじったコピー商品のジャンパーは自分に載せられた偽物のロゴを受け入れ、自分の役目を全うしようと、冷え始めた秋の夕方に仕事を終えて帰宅する持ち主を寒さから守っているのだ。おじさんの心理としては「このジャンパー、今ぐらいの時期に自転車に乗るんに丁度ええで」という具合だろうし、ジャンパーとしては「おやっさん、今日もがんばらはったで。家はもうすぐそこや。風はわしがしっかり避けるさかい、身体冷やさんといてな」といった具合だろう。その時、ロゴがNIKE風のMIKEだからといってなんだというのだ。そこにある着物が着る人と築いた絆は真実である。
 フロントガラス越しに見るジャンパーの誇らしげな潔さは、私に「自分は本質的な格好良さに気付くことはできるか」と問いかけたように思えた。大げさに思われるかもしれないけれど、今も時々その光景を思い出す。
 私は数年前に、東京のお洒落な一家の生意気な美少女が関西に一人送り込まれ、散々追い込まれるという話を描いた。描き終わったすぐあとには気付けていなかったが、今思えば、漫画の中で一番disりたかったのは、お洒落に構えた都会の美少女だけではなく、仕事がなんとなくうまくいったように見え、業界で活躍する人たちからちやほやされ東京の煌びやかな場所へ臆することなく出入りしようとしている自分自身だったと気付く。
捨てられないTシャツ。それを捨てさせなくするのは、未練や思い出だけではない。それを抽斗の奥から引っ張りだして広げるとき、未来の自分への戒めが纏われているのだと思う。ほんの少しの希望と共に。
 

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