ちくま学芸文庫

日本人と数学的センス

「数学的センス」とは、基本的には「言葉で、抽象的に考える」センスのことである。それは私たちがふだん活用しているセンスで、たとえば知り合いの人に最寄りの駅から自宅までの道順を教えるときには、途中の景色やお店の看板などのうち、特徴的なものだけを抜き出し、ほかはみな無視して、要点だけを説明するであろう。聞く方も、途中の店の名をすべて挙げてもらっても混乱するだけで、「交番の横を右に曲がって……」式の「要点だけの説明」のほうがわかりやすいものである。このように「わかる」ということにも、数学的センスは深くかかわっている。
 おもしろいことに、抽象的な思考ができない未開人は、そんなふうに要点を「言葉で説明する」ことができないし、「要点がわかる」ということもない。そのかわり、視覚的な記憶力が素晴らしく、ジャングルの道なき道でも一度通れば、ビデオで録画したように覚えてしまうのだそうである(ジャングルでは数学的センスは役に立たない?)。
「12ひく4は?」という問題を考えるときには、12というのが12個のリンゴなのか、12枚のハンカチなのかは関係なく、具体例とは切り離して計算ができるはずである。しかしこれも、抽象的な思考に慣れていない未開人や子どもには、とてもむずかしい。そもそも未開人だと具体例ぬきの「12」が、すでにたいへんな難問かもしれない。だから「何であろうと、12ひく4は8」と、具体例ぬきで計算できる人は、まちがいなく数学的センスをおもちなのである。
 残念ながら学校の一斉授業では、「ゆっくり考えて、おちついて抽象的な考え方に慣れてゆく」時間が必ずしもない上に、「数学ができない奴は頭が悪い」式の強引な教育の犠牲者も少なくなかったようである。数学の教師としては深くお詫びしなければならないが、実はしっかりと考える力のある子が、かえっておちこぼれやすいところもある。昔、微分積分学が誕生間もない頃は、「変数の値を0に近づける」ことと「変数に0を代入する」こととの区別がいい加減だったために、なまじ言葉のセンスが抜群であったルイス・キャロルが落ちこぼれた。ついでながら高校生が小学校の算数の教科書を読めば、計算の速さは別として、応用問題ならたいていは解けるのではないだろうか。ずっと「算数・数学は苦手」と思い続けている人でも、算数・数学の力は上がり続けているのである。
 ところで現在教育の現場では、「能力の高い子を伸ばそう」というかけ声の下に、試験の点数で生徒や学校を差別化する傾向がますます強まっているが、愚かなことである。目先の点数では能力のほんの一部しか測れないので、特に小・中学校ではそれで「能力の高い子が選別できる」などと思わない方がよい。
某県の県立高校でも「有名大学への進学率ではA高校よりB高校。でもノーベル賞受賞者と総理大臣はA高校から出て、B高校からは0名」とか、某大学・某学部でも「偏差値が高いのはA科、それからB科で、C科は最低。でもノーベル賞受賞者はC科から出た」など、おもしろい例がたくさんある(受賞者をふやすには、全体のレベルを上げなければダメ!)。
 日本人は昔から、知的好奇心が旺盛で、「覚える」だけではない「わかる」ことの喜びを知っている民族であった。「覚える」ことはサルでもイヌでもできるが、事柄を「わかる」には抽象的な言葉が必要で、それこそ「数学的センス」の核心部分である。そして「わかりたい」という好奇心と、「わかる」力こそが、江戸時代には「和算」という独自の数学を作り上げ、明治維新の直後には西洋諸国の文明に急速に追いつき、また第二次世界大戦の後には、敗戦の焼け野原から急速に立ち直った日本人のエネルギーの、原動力なのではないだろうか。今でも、社会に出てから「なぜ?」という好奇心を失わない人が多いのは、すばらしいことである。

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