鬼海弘雄

死よ、老船長よ、錨を揚げる時が来た!

2020年10月19日、写真家・鬼海弘雄がこの世を去った。無数のイメージが現れては消える現代社会にあって、地に足のついた確固たる写真の表現を追求し続けた稀有な存在だった。本特集では、さまざまな角度から、鬼海弘雄の作品と人となりとをたどっていく。

 アニキなど欲しいと思ったことは一度もないけれど、アニキよろしく、と不覚にも思ってしまった人が二人だけいる。鬼海弘雄と比嘉豊光。残念至極、だ。なぜか、二人とも写真なるものと関わっている。それぞれ別様に、双極的に異なっているとさえ言えるだろうが、どちらもとんでもない奴らで、絶対一緒にいたくないのだけれど、変な配置で、ずっと、嫌でも一緒にいざるを得ない、のか。これまた残念至極である。

 小さな地球儀、小さな永遠。いずれも鬼海さん自身が用いた言葉だ。対談でのやり取りや鬼海さん自身の文章の中に見事に収まってはいる。しかし、聞こえるのだ。この言葉についてもっと考えろ、という鬼海さんの執拗な声が。島々の哲学を作れ、という豊光の叱声と共に。

 思えば、無謀な船旅の計画、が鬼海さんと知り合うきっかけだった。それはまさにボードレールが『旅』で、「しかし、本当の旅人は旅立つために旅立つ人のみ」と歌うような出来事だった。それにしても何という「交感」であろうか、「思い出の眼差しの下では、世界は、何と小さなことか! ああ! 世界はランプの下で、何と大きなことか!」という詩句を知ってか知らでか、鬼海さんは「小さな地球儀」と言い、「私たちは行く、波のリズムに従い、私たちの無限を、海の有限の上で揺すりながら」という詩句を知ってか知らでか、「鬼海よお、この天体にな、生命が、人間と同じようなものがいるんだよなあ」というヤクザなマグロ船漁師の船上の言葉を田口ランディに語っているのだ。

 以前、『PERSONA』(2003年、草思社刊)の評を依頼されたときには四つのことを指摘した。子供ないし人形を抱いた人物という、「鏡像段階」に先立つ構図の遍在。遠近法とそれを仮構する中心点の徹底した破壊(Ent-fernung)と、肌理と線と濃淡からなる奇妙な「平面」の創造。第三は、驚くべき静止感。川に飛び込む男の身体の輪郭には全くブレがない。鬼海さんがいつも大海原で揺れているからだろうか。そして、日々営まれる「海辺の経済学」。「プリント」という手と数多の界面との接触のなかで生まれるこれらの「像」は、一方ではインドやバングラデシュにおける飢餓、飢饉、貧困の理論的解明と実践的支援をそれぞれの仕方で訴えるアマルティア・セン、マーサ・ヌスバウム、ピーター・シンガーたちの壮大な企てに、他方では「スモールワールド・ネットワーク」の理論に、更には、遠隔映像による悲惨の演出と犠牲者化と憐みの喚起に沈黙しつつ抗っているのではないだろうか。

修学旅行生の記念品
(『PERSONA最終章』)

 鬼海さんは、抱く者の欲望が鏡面で反射して懐かれるものに投影される回路を遮断する。『PERSONA』第一書の末尾と最終章の冒頭には、周到にも「背-面」が配置されているが、後者ではこの構図に様々な変化が生じている。子供と人形が随所で衣服の図柄やギターや犬たちや肩の猫などに変容している。モノと動物に。また、「父」と思しき人に懐かれた赤子はあらぬ方向を見ている。一体、何が起こっているのだろうか。「出会いイコール’’仕合せ’’」を語る鬼海さんはそんなことは思いもしなかったかもしれない、けれども、「写真には何も写っていない」「写真が写真を考える」といった一言が漏洩しているように、鬼海さんは、古今東西を貫く「ペルソナの装置」(ロベール・エスポジト)とそれを支えるモノ-人間、身体-精神、仮面-顔、一人称-二人称の弁別を図らずも壊しているのではないだろうか。鬼海さんは「ペルソナ」を終わらせねばならないと思っていたのではないか。いやそうではない、「ペルソナ」など端から撮っていなかったのではないだろうか。

怪我をした鳩を抱く男
(『PERSONA最終章』)

 「小さな永遠」、まさにそのような題名を書物がここにある。畏友ジャン=クレ・マルタンの Bréviaire de l’éternité である。三浦均の素晴らしい本『映像のフュシス』(武蔵野美術大学出版局)がこれに言及している。邦訳では「公式」となっているが、bréviaire は「聖務日課(書)」の意で、「短い」(brevis)から生まれた単語である。スピノザとフェルメールの交流を仮想しながら、スピノザの「レンズ」と、カメラ・オプスクラを好んだフェルメールの「目」を重ね合わそうとした恐ろしく刺激的な試論である。「永遠」(aeternum)はスピノザが好んだ語で、絶対的に無限な「実体」「神」「自然」と同義である。「永遠ノ相ノモトニ」(sub specie aeternitatis)に「物」(res)を知覚するとは、「物」を必然的なものとして知覚することで、このような理性の仕事が可能になるのは、「現実に存在する各々の物体ないし個物の観念が全て神の永遠・無限な本質を必然的に含んでいるからである」(Unaquaeque cujuscunque corporis, vel rei singularis actu existentis, idea Dei aeternam et infinitam essentiam necessario involvit)。どんなに微小な個物も実体の永遠で無限な本質をそれなりに表出している。マルタンはフェルメールの『真珠の首飾りの少女』の「真珠」に注目する。真珠貝の中で「真珠」が擬似結晶化する過程を思い浮かべて欲しい。イスラームの神秘家マフムド・シャベスタリが言うように、そこには「百の大洋」が入り込んでいるのだ。

 しかし、「永遠ノ相ノモトニ」知覚することは、「個物」を無数の関係に解体することでも万物の流転を認知することでもない。それだけではない。錯綜を極める動的諸関係の暫定的な疑似結晶化、その一回性・特異性(singuralité)を捉えなければならないのだ。ベンヤミンと同様、スピノザからtractatus〔トラクタートゥス〕という語を継承したウィトゲンシュタインは、「永遠ノ相ノモトニ」という表現をも継承して、「永遠ノ相ノモトニ世界を直観することは、世界を全体──限界付けられた──として直観することである」(Die Anschauung der Welt sub specie aeterni ist ihre Anschauung als – begrenztes – Ganzes)(『倫理哲学トラクタート』6・44)と書いているが、まさにこれこそ、「個物」という「事態」(Sachverhalt)の「特異性」を語るものであり、それを端的に示すのが「像」(Bild)という語である。

霧が立つ冬の浜
(『SHANTI: persona in india』)
 

 きっと理解力が足りないのだろうが、「像」にせよ「写像」(Abbildung)にせよ、十分納得のいく説明を読んだことがない。映画とウィトゲンシュタインの関係について示唆的な証言を残してくれた教え子のマルコムは、経済学者スラッファとの対話の中で、スラッファがなした動作の論理構造を問われて、ウィトゲンシュタインが「像」の理論を捨てたと回想している。だが、素人の読者には、「像」はウィトゲンシュタインを貫通する鍵語であると思えてならない。「フィルム」「スクリーン」「ポートレート」と共に。Josh Jones の “The Photography of Ludwig Wittgenstein” という興味深い論考がすでに存在するし、そればかりか、カメラ・オプスクラのことを思わずに、世界は das Fall〔事例、落下〕の総体である、という『論理哲学論考』の最初の言葉を読むことはできない。ウィトゲンシュタインは理解されているのだろうか。もはや紙数もなく、ベンヤミンの認識論的トラクタートスどころかウィトゲンシュタインについてもほんの僅かしか語ることができないけれども、鬼海さんのいう「小さな永遠」は、ウィトゲンシュタインのいう「像」の神秘と深くつながり、それはスピノザとフェルメールの交響の余韻の中にあるのだということ、この点だけをさしあたり記して次稿への助走としたい。
 

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