藪前知子

⑤ 夏の祝祭

アートとは何か、アートは社会とどう関われるか。気鋭のキュレーターがアートの役割を根源から問いなおす、コラム連載第5回。

ポケモンGOとARのインパクト

これから編まれるだろう21世紀の文化史に、今年の夏の出来事――ポケモンGOの配信開始はどのように書き込まれるのだろう。熱い盛り上がりは一週間くらいで急速におさまったとはいえ、何もない公園や住宅街の一角に、互いに関わりのない人たちがスマ—トフォンの画面を見つめて集まっている異様な光景は、AR(拡張現実)が一気に世界に浸透したインパクトを感じさせるに十分なものだった。身の回りの世界の細部がポケストップとして取り込まれ、既存の諸文化がハッキングされていく様を、私たちは社会現象として体験したのだった。

ポケモンGOや、その前身と言われるIngressの立ち上がりを、近年のアートの文脈を対照させて考えた人も多いだろう。AR技術の使用の有無はともかく、鑑賞者が端末を持って特定の場所をめぐり、そこにもうひとつの現実が重ね合わされる様を体験する作品は、すでにいくつも作られている。例えば2012年のドクメンタ13で話題を集めた、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミュラーの作品は、カッセル駅の構内を歩きながら、同じ場所を映したiPodの中で展開される、カッセルの歴史とフィクションが入り交じった物語を鑑賞するものだった。

 

そこから「他の場所」へ

実際のところ、ポケモンGOにとってのARは補足的な楽しみにすぎない(ARをオフにしたほうがプレイしやすいし)。だが、アートの体験は常に、鑑賞者の視界にある具体的な場所に紐づけられる。そこからいかに「他の場所」へ鑑賞者の意識を転送できるかに、作品としての成立が賭けられていると言ってもよいだろう。

思えばこの年のドクメンタは、カッセルだけでなく、アフガニスタンのカブール、エジプトのアレクサンドリア、カナダのバンフにも会場が設けられており、鑑賞者はこことは別の場所と時間、他者の存在に意識に上らせつつ鑑賞することを促された★1。芸術監督を務めたキャロライン・クリストフ=バガルキエフの「テーマを持たない」という発言で話題になったドクメンタだが、ここで否定されているのは、固定された単数のパースペクティブであり、アートがそこからいかに複数性を確保し、通底音として流れる、テロや戦争、そして復興といった現在の世界各地が抱える問題へ言及できるかが試されていた。

特定の地域に展開するアート・プロジェクトが、サイト・スペシフィックであることと「他の場所」への転送可能性を表裏一体のものとして孕むことは、この夏開幕したあいちトリエンナーレでも強く印象づけられたことだ。「旅」をテーマに、「芸術とは越境を夢みるすべての人のためにある」★2と語る芸術監督の港千尋が組織したトリエンナーレは、2016年の名古屋という場所から、そこではない場所――アフリカや中東、札幌や沖縄、過去や未来など――へと私たちを送り出すものだった。コンセプトの上では国際展の「祝祭性」に言及しつつも、視覚に訴える、いわゆるスペクタクルな作品がほぼなかったことは、祝祭とはそもそも不可視と可視の領域が交わる場なのだということを改めて考えさせられた。それはそのまま、すべてのアートの経験の条件とも重なる。モンスターを狩り、戦わせるだけのポケモンGOとアートが決定的に異なるのは、異化されたこの場所が、他者の存在へと繋がる想像力の入り口となることだ。

 

アートは「スペクタクル」を書き換えうるか

ところで、このトリエンナーレを、この夏に行われた別の祝祭――、オリンピックの会期中に見た事は、個人的には印象深いことだった。特に、リオともうひとつの場所――4年後の東京――間の転送が行われた閉会式の東京オリンピックのプレゼンテーション。SNSでも、ライゾマティックスが担当したARに話題が集中していたが、あの映像は、ソニーの最新技術によって、端末なしに現実空間で可視化されていたという。スクリーンなしでの立体ARは夢の技術としてしばしば話題にのぼるが、4年後にそれが実現したら、ポケモンGOどころの騒ぎではないだろう。東京オリンピックでは、小中学校の校庭でオリンピック選手と一緒に匂いや風も感じつつ走るなど、最新の情報通信技術を使った体感型の鑑賞の可能性も議論されているという。現実に対する知覚と行動の様式を書き換えてしまうような技術革新が起きたとき、そこでアートはどんな力を持ちうるだろうか。

周知のように、「スペクタクル」とは、ギー・ドゥボールが、現実世界が代理-表象というイメージの内側にしか存在しない、高度資本主義/情報消費社会の構成原理として取り上げた概念だ。それは、他者に向かって開かれるというコミュニケーションの様式自体の商品化であり、人間をただ受動的な存在に置くものだ。半世紀も前に書かれたものであるにも関わらず、たとえば次のような一節に、ポケモンGOの引き起こしたこの夏の群集の光景を連想してしまうのは私だけだろうか。「観客どうしを結びつけるものは、彼らを孤立状態に保つ中心自体に対する彼らの不可逆的な関係だけである。スペクタクルは分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせるのである」★3

これからの4年間、アートに関わる者は、圧倒的な浸透力を持つ「スペクタクル」の知覚様式を意識しつつ、いかに自発的な想像力の発動とコミュニケーションの機会を創出していくかを問われることになるだろう。スポーツの祝祭が、単なる「見世物」ではなく、他者の身体を通して「他の場所」へ旅するためのメディアとなるために。4年後の閉会式の瞬間、私はこの夏の出来事を、どのように振り返るだろうか。

 

★1 この形式は来年開催のドクメンタ14でも踏襲され、アテネがカッセルと同等の会場として扱われるようである。

★2 「編者あとがき」『夢みる人のクロスロード 芸術と記憶の場所』港千尋編、平凡社、2016年、P.138

★3 ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年、p.28

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