重箱の隅から

どのように言葉は痩せたと言うのか②

 コロナ下(あるいは禍)、言葉が痩せ細って縮こまってきた、と哲学者は言い、農業史と食の思想史が専門の学者は、そう言われてみれば、「「出そうで出ない、でもなんとか出してみた」とか、つっかかりながらもはき出してみた」という類いの「ことばを、最近みかけなくなりました」と、答える。
「ことば」は肉体的かつ極度に生理的なものなのであり、あたかも便秘や嘔吐のような現象として人体から押し出されるものでもあるかのようなのだが、では歴史学者の言うそれが具体的にどういった類いの「ことば」だったのかは、私としては考えたくもないことだが、歴史学者がコロナ禍の20年の4月26日の朝日新聞文化・文芸欄に寄稿した文章は、どう呼ぶべきだろうか。
 近代主義的権力が様々なものを犠牲にして推進して来た「経済成長」主義ではなく、それが役立たずだと抑圧してきた「人文学の言葉や想像力が、人びとの思考の糧になっていることを最近強く感じる」学者は、紙面に次のような「ことば」を、「つっかかりながらもはき出してみた」のかもしれない。
「これまで私たちは政治家や経済人から」その貢献度の低さ(たとえば、科学技術に比べて?)を「何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削って」いると言うのに、「企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた」のだった。「だが、」と歴史学者は、コロナ体制下、昂然と胸を張って唾棄すべき相手に向って「だが、いま、」と吐きすてるように叫ぶ。
「以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ」と、学者は冷静に相手を説教する。考えが足りないから重要なエビデンスを見落し、現場を知らないので緊張感に欠け、「言葉が軽いから人を統率できない」し、「アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない」し、もちろん、「コロナ後に弱者が生きやすい﹁文明﹂を構想することが困難」で、「危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない」と叫ぶのだが、この藤原辰史の文章が紙面に掲載される少し前には、連載が開始されて2000回になる人気コラム「折々のことば」の執筆者である哲学者との対談が朝日の紙面をにぎわしているのだから、「ことば」はある場所では、かならずしも痩せ細っていたばかりではないのだろう。歴史学者は対談を「毎朝、新聞を開きますが、最近はいやな出来事ばかりでつらい……。だから真っ先に「折々のことば」を読みます。現実をみる前に心を整える場所になっています(笑)」と、ストレートな讃美かお世辞ではじまる類いの言葉は痩せ細っているというより、むしろ小ぶとりしていると言うべきかもしれないではないか。
 それに、何もコロナ禍という特別な状況を必要としなくても、昔から今日にいたるまで私たちは日々いくらでも、痩せているのか水ぶくれとも肥満ともつかない「ことば」や「文章」をメディア上でいくらでも眼にしていたしいるではないか。
 それは良き正しき事を目ざしている文化人や学者を叱ったり説教する「あなたたち」である「政治家や経済人」だけのものではなく、おそるべきことには平等に(コロナ禍の最中、コロナウイルスは人類を平等に襲う、という言説があった。認知症が誰でもかかり得る病気と言われる一方、不確実な防衛法が云々されるのと同じように)誰でもそうした発言者になり得るのだ。
『小さな巨人』という70年代初頭のアメリカン・ニューシネマがあったのと、幼稚な嗜好を示す巨人・大鵬・たまごやきという言葉を覚えているが、「知の巨人」という言い方はいつ頃から存在していたのか、思い出すことが出来ない。大江健三郎、坂本龍一、そしてゴダールのようにその死が新聞紙上の短歌と俳句の投稿欄をにぎわせるような存在ではなかったにせよ、建築家の磯崎新を悼む言葉として、批評家でもある教授は、「世界文化史を体現する巨人の一人」と世界文化のために、巨人が複数であることを強調しつつ讃え、朝日新聞の「ニュースを考えるヒント満載」の「コメントプラス」欄(というものがあるらしい)について、紙面で対談をしている学者の片方は、お気に入りのコメンテーターを問われて「(歴史社会学者の)小熊英二さん」「まさに「知の巨人」で、その調査力は知られているところ」と答えるのだが、私たちとしては小熊というあいらしい名から「小さな巨人」というタイトルを思い出して、少し微笑むかもしれない。
 三年前、「折々のことば」について語りあう学者は、iPhoneに搭載されている話しかけると応答する機能Siriの返答について、飲み会の席で知人が教えてくれたエピソードに「ええっ! 何ていう優れものや」と驚いてすぐにメモするのだったが、お相手の歴史学者も「鷲田さん、とうとう非人間のことばをとりあげちゃった」と大変な驚きようである。
 このまるで悪意のない無邪気さは何かを思い出させる。かつて、国語の辞書に載っている性的な言葉(たとえば、挿入)を片っぱしから引いて、ポルノに触れたような気分に浸っていたタイプのとりあえず優等生の中学生男子の、もちろん知的な行為を連想してしまうのだ。
 ところで、現在はSiriではなくチャットGPTの話題が全盛で、ある種の職業、なかでも、ジャーナリストやコラムニストの需要の未来に懸念が生じているらしい。言うまでもなく、わざわざ人間が書かなくても、それなりの物が書けるからなのだが、たとえば、2023年、5月27日の「天声人語」(朝日新聞)と「筆洗」(東京新聞)を読むと、これはすでにチャットGPTによって書かれているのではないかという気がする一方、しかし、そうであるならばその電子システムはある種のユーモア感覚で新聞社論説委員を正確に舐めきっている、という気もしたのだった。
 二つの新聞の看板コラムは、それを新聞の読者が専用ノートに書きうつすことで何かを学べると紙面で臆することなく宣伝している(他の新聞社も同じなのかもしれないが)点でも、そっくりなのだから新聞記事の文章程度のものの書き方が一から十まで似ていたとしても、しむことは、当然ないし、記事にそうしたことがあると、無能な記者の盗作が「お詫び」記事として載ることにもなる。
 とは言え、長野という地名を見るや、ジャーナリストの何割の者が『故郷』の歌詞を思い浮かべると言うのだろうか。

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