重箱の隅から

耳はいつ痛くなるのか、あるいは馬鹿という言い方①

 ことにあたって(と言うのは、いつも後手に回った時点なのだが)いくらか良心的に悩みもするタイプのジャーナリスト(署名入り記事を書く記者である)が、通り一遍の反省をこめたり匂わせたりして使う用語に「いささか耳の痛いはなしである」とか「私たちにとっても耳が痛い」というものがある。
 これはどういう場合に使用される言葉かと言うと、いかにも時代錯誤な古めかしい例を挙げるようだが、たとえば「クレイジーキャッツ」の植木等が軽いノリで、頭をかきながら、「いやぁ、そう言われちゃうと、耳が痛いっすねえ」といった調子に使うものではなかっただろうか。それは激痛などではなく、笑いと共に語られるちょっとしたかゆみに近い痛みだ。
 国語辞典的にはこの慣用句は「人のことばが自分の弱点を突いているので、聞くのがつらい」と言った意味で説明されるが、慣習的には軽いニュアンスで、いわば、弱点を突くのは、親しい間柄の人物であり、そこは弱点でありこそすれ急所ではないのである。
 最近この言い方をジャーナリストたちが使ったのは、BBCの報道番組で放映されたジャニー喜多川の青少年に対する性犯罪事件に関連してはじめて触れられた、それまでの日本のテレビや新聞の極端な無関心が、ジャニーズ事務所への忖度(というより事務所側の傲慢な圧力と言うべきだろう)であると共に、少年に対する性犯罪への意識の極端な低さゆえのもの(人権意識の欠落と言うべきだろう)であると、テレビ局と事務所の構造的な上下関係を批判したときだろう。我身を振り返って見れば耳が痛いと言うわけだ。
 自らの立場を振り返り耳の痛さについて言及する新聞記事では、いちいち覚えてはいられない程、よく目にする大して意味のない軽い反省用語として多用されているのではないだろうか。
 たとえば朝日新聞読書欄(23年10月28日)の、漱石門下の文芸評論家から日米決戦を煽る軍事評論家、さらに衆院議員となり、戦後はA級戦犯容疑者となった池崎忠孝(赤木桁平)の評伝(『近代日本メディア議員列伝6 池崎忠孝の明暗 教養主義者の大衆政治』)の著者佐藤卓己は記者によるインタビューの中で、池崎の生涯の「明暗」が「読者の共感を追い求め、世論を反映するメディアをテコに社会を動かそうとした結果」と語り、「責任ある公的意見(輿論)を担うのが本来の政治であり、ジャーナリズムだとすれば、格好の「反面教師」となっている」と佐藤のメディア論をまとめる記者は「記者として世論の反応に目をこらす大小の「池崎」たちにとっても、耳の痛い話ではある」と安易な慣用句を使用して文章をしめくくる。
 耳が痛いという慣用句は、植木等が演じた高度成長期の会社員(いわゆる戦争を闘わずに、国会議員を経て東京都知事にもなったし、直木賞作家にもなった「スーダラ節」をはじめとする植木のC調ソングの作詞者でもあった青島幸男の名と切り離して考えられない存在である)を思い出させる軽薄さが使い勝手の良い便利な言葉なのだろう。ひところ、心理的ダメージを表わす言葉として「心が折れる」という表現が流行したことがあり、植木等の「スーダラ節」以前のアメリカン・ポピュラーを覚えている者ならば、当然「ハート・ブレイク・ホテル」を思い出して、腰を特徴的なリズムで突き刺すように振動させながら歌うプレスリーの失恋ロックを思い出してしまうところだったが、現在では、感動的かつ衝撃的な言葉から受けた印象を「刺さる」と言うのが、大衆レベルで流行っていたらしい。もちろん、耳が痛いという状態より強く、それが身体のどこかは知らないが、小さな棘のように刺さるという訳なのだろう。
 たとえば、20年に東京新聞に連載された「南海トラフ 80%の内幕」で科学ジャーナリスト賞を受賞した小沢慧一記者による『南海トラフ地震の真実』の朝日新聞(10月7日)に載った書評は、実に奇妙なものだ。
 政府の発表した数字として、私たちは新聞の紙面を大々的に使用した「西日本の太平洋沖にある南海トラフでは、地震が30年以内に「70~80%」の確率で起きると、政府は予測している」という記事を読まされたものであった。科学的根拠の薄い「発生確率」にどのように地震学者が「研究費」という「甘い汁を吸」って「科学のお墨付きを与えていた」かという「学問の恥部を暴く、痛快で、やがて悲しいノンフィクション」であると、下品な印象を与える新聞文体で書かれた書評の書き手は自らのいわば弱腰を「白状しないといけない」と書く。『田中角栄研究』の内容について、あの程度のことなら知っていた、とうそぶいた(などという不快な言葉を私までつい使ってしまうではないか)のと同じタイプの、記者的言説である自分たちだって気づいてはいたとか、知っていたというニュアンスで、政府の発表した地震予測は「科学的に眉つばだと思って」いたし、そもそも地震研究を取材した記者に「あの予測を怪しんでいた人は少なくないはず」だと思うのだ。にもかかわらず「受け入れ」て記事にしていたばかりか、「多少怪しくても、数字を示して備えを呼びかけるのは悪くないし、政府の公式発表を無視するわけにもいかない(商社社長から転身した元NHK会長の、政府が白と言うものを黒と言うわけにはいかない、という発言と同質の考えである。引用者)。そうやって、自分を納得させていたと思う」し、今にして思っても他から見れば遅すぎるのだが、「疑問を感じていたのだから、取材で突き詰めておくべきだった」と書き、どういう訳なのかまるでこの『南海トラフ地震の真実』が研究者や記者を想定して書かれた本であるかのように「研究者や記者ではない人も、本書を楽しめるはずだ」と書くのだが、むろんこの新聞記者による本は、内容に興味を持つであろう読者に向けて書かれているのだ。「拾い集めたヒントから、データのいかがわしさに気づいていく」と、朝日新聞デジタル企画報道部の多分若い記者は書く。「自分の力で真実を見つけることの面白さが、ビシビシ伝わる」。

 さて、この書評と言うか感想文を読んで私が思い浮かべた言葉は、日常的に文字を読む生活において、書くことはそれほど多いとは思わないが、極くなじみ深く、頭の中ではかなりの頻度で使用する「バカ」という言葉である。「間抜け」の方がいいかもしれないが、いずれにしても、私はそういった直截的な言葉を使わず、具体的な文章の中で使用されている言葉を引用するなどの方法で、文章とその書き手のおおよその「質」を読者に提示するという簡単なやり方を好むのだが、この書評の書き手の新聞記者は、耳が痛いですませようとする書き手に比べるならば、正直者が馬鹿をみるといったコトワザに登場するタイプなのかもしれない、と思ってからしばらくたった10月26日、朝日新聞の小さな囲み風の記事のタイトルが眼に入った。「俳人ら「角川」に抗議 「黒田杏子さんの名誉に傷」」というもので、角川の出版する月刊誌『俳句』の記事で3月に死去した俳人黒田杏子の名誉が傷つけられたとして抗議したのだそうで「俳壇で権威とされる角川に対する俳人らの抗議は異例」であるらしい。
 遺族と俳人8人の9名は、『俳句』9月号の「大石悦子追悼特集」に掲載された高橋睦郎の文章の回想の中に、高橋が大石悦子に会うと話した際、黒田が「なんであんな馬鹿女と会うの、会わなくていいわよ」と言ったと書かれていたことに対して「黒田さんの人格・品位への疑念を読者に抱かせかねない」と「掲載に至った経緯の説明や、遺族・関係者への謝罪などを、11月15日までに角川側に求めている」というものである。
 高橋睦郎には回答を求めていないらしく、『俳句』編集部は朝日新聞の取材に、早ばやと腰低く頭を下げたという趣きで「ご遺族やご関係の方々には、正式に謝罪を申し上げる所存」でその他の求めには「厳粛に受け止め、期限までに回答する」と答えているらしい。もっぱら、誌面に掲載した側の問題として俳人たちはこの馬鹿女問題を考えたのだろう。
 この記事中で問題になっている「人格・品位」は、もちろん「馬鹿女」という言葉と「会わなくていい」という命令的な暴言(?)のことで、それはそう評された方が品位や人格を疑われかねないからなのではなく、あるいは名誉を毀損されたというわけでもなく、人を評する時に「あんな馬鹿女と会うな」と後輩に告げる人物が品位や人格を疑われるということらしい。
 しかし単純に、この2人の人物が男であったらどうだろうか。
「あんな馬鹿野郎と会うのか、会わなくていいよ」と、だわよ口調ではなく、馬鹿女よりも罵り言葉として、なんとなく普通の感じのする馬鹿野郎である。男や女を指す言葉ぬきの単なる馬鹿でも話は通じるのだが、どうやら馬鹿女と言う言い方は下品で、口にする人物の品位や人格を、強く疑わせるらしい。たとえば、戦後最初の国葬でおくられた吉田茂は首相時代に野党の議員(それとも新聞記者であったか?)にバカヤローと感想をもらしたことで国会を「バカヤロー解散」することになった、ということを微かに覚えているが、むろん、解散の理由はバカヤローと感情的に発した言葉のせいだけではなくもう少し政治的だったろう。私は俳壇の人間関係のことなど何も知らないのだが、この記事を書いている記者は、角川を「俳壇で権威とされる」とか角川文化振興財団の主催する「蛇笏賞」を「俳壇の最高賞」と書くなど、どうも権威主義的な傾向が感じられる。男の俳人間で馬鹿という言葉が使われても、名誉だの品位だの傷だのの騒ぎにまではならなかったはずで、どうやら馬鹿の次に女という言葉がつながると、刺激的に名誉やら品位やら性格を毒々しく傷つける下品な言葉になるらしいのである。(つづく)

関連書籍

金井美恵子

新・目白雑録

平凡社

¥2,090

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

金井美恵子

たのしい暮しの断片

平凡社

¥3,300

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入