移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑②
対馬に移住した韓さんの話(後半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話の後半です。日本と韓国の境にある対馬から見えるものとは?

韓国が見える丘
 対馬滞在の最後の日は快晴だった。釜山行きの船の時間まで、韓さんが車で対馬を案内してくれた。
 「今日は見えるかもしれない」
 案内標識 には「韓国が見える丘」とあるのだが、実は見えない日が多いのだという。早朝は晴れていても、すぐに雲がかかってしまうらしい。
 (前半)にも書いた半世紀前の夏、ここから故郷を一目見ようとした金達寿や李進熙らの願いも、初回はそれに阻まれた。
 「朝鮮の釜山が見えるはずだという水平線上は、すっぽりと分厚い雲におおわれてしまっていた」(『対馬まで』)
 彼らは翌年、再チャレンジする。
 金達寿は1920年に日本の植民地下の慶尚南道昌原に生まれた。10歳で日本に渡り、苦学の傍らで小説を書き始め、戦後に日本の文壇でデビューして人気を集める。「在日朝鮮人文学」の第一人者である。 
 李進熙は少し年下で1929年 生まれ。同じく苦学して日本の大学を卒業した考古学者であり、対馬の雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)や「朝鮮通信使」を世に知らしめた人でもある。
 彼らが生まれ故郷である韓国に戻れなくなったのは、政治的な理由だった。日本政府は1952年に 旧植民地の人々の日本国籍を剝奪した(過去の経緯を考えれば、国籍選択や二重国籍などもあり得たはずだが、決定は一方的に行なわれた。)後、1965年に日韓条約を締結して南の朴正熙政権とだけ国交を樹立する。その時に「在日韓国人の地位協定」についても取り決められ、韓国籍を選択したものは「協定永住者」となった。それはある意味で「踏み絵」となり、在日社会に分断をもたらした。
 金達寿も李進熙も過去には社会主義に希望を託し、北朝鮮傘下の組織で活動したこともあった。しかし彼らはその体制的な矛盾に気づき、とっくに組織から離れていた。しかし韓国の軍事政権は彼らを危険人物とみなしていた。

ポインダ! 見える 
 「再度の対馬行きが実現したのは七四年の晩秋だった。金達寿と鄭詔文、私の三人は博多から船で厳原に渡り、直ちにレンタカーを借りて北端の佐須奈に直行した」(『海峡』)
 李進熙の『海峡』には、二度目の対馬行きについて詳しく記してある。
 「私は体調を崩していたので遅れをとっていたが金達寿の足は早く、やがて上から『ポインダ!』という声が聞こえてきた。息せき切って山頂をめざし、群生するススキの原に立つと、はるか彼方に母国の山並が細長く広がっていた」(同書)
 同じ瞬間が金達寿の『対馬まで』では次のように書かれている。
 「登りつめた。見えた。次の瞬間、私は声をふりしぼって叫んでいた。
  『ポヨッター! ポインダ!(見えた! 見える!)』
   朝日を受けてひろがった目の下の海の向こうにうすら青い高い山々が、しかも前後ろに折り重なって長々と横たわっている」(『対馬まで』)
 彼らが見た海の向こうを、私も見た。山並みではなく白く 光る高層マンション群を見て、それが釜山だとわかった。半世紀の間に風景は変化したが、50キロ余りという距離は変わらない。そして眼の前の海峡が「国境」であるのも同じだ。

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