移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑②
対馬に移住した韓さんの話(後半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話の後半です。日本と韓国の境にある対馬から見えるものとは?

第2話前半はこちら↓
https://www.webchikuma.jp/articles/-/3293

梨畑

 韓さんの家の縁側に座ると、目の前に梨畑がある。その奥には対馬の山の稜線が霞んで見える。
 「私もここに来て住もうかな」
 スンボクさんが背伸びをしながらつぶやく。後から合流した友だち二人も「うん、うん」とうなずいている。
 「ところで梨はありませんね」
 たしかに梨の木に梨がない。もう収穫が終わったのだろうか?
 「いや、梨は実らない」
 皆が一斉に韓さんのほうを振り返ると、真顔で言う。
 「受粉しないんだよ。蜂がいないから。でもなんとかするつもり」
 一同、驚きを隠せない様子だが、私は彼をよく知っているから心配しない。やると言ったらやる。彼の家のトイレには宮沢賢治の有名な詩が貼ってあった。雨ニモマケズ、ミツバチの天敵である外来種のスズメバチにも負けず、 彼ならやり遂げるだろう。
 高校生の頃から農業がやりたかったという。帯広畜産大学に行こうとしたが、周囲の大反対で叶わなかった。通っていた高校は新設校で、教師は進学実績のために「東大か京大」の二択、一方で周囲は「在日は医者か弁護士」と連呼した。当時の日本企業は在日コリアンを採用しなかったからだ。
 「でも北海道に行きたかったからね、北大工学部で妥協」
 そもそも大学を出たところでまともな就職先などなく、結局は親の自営業を継ぐのが関の山。あの孫正義も米国から日本に戻ってやった最初の仕事は、親戚が経営するパチンコ屋のシステム開発だった。
 韓さんも在学中に札幌の区役所で指紋押捺拒否をした後、「家の仕事を手伝え」と呼び戻された。大学は4年生で中退、愛知県に戻って家業を手伝いながら、名古屋地裁での裁判に挑んだ。

裁判は想定外の展開に
 1984年から始まった裁判は、86年9月に名古屋地裁で罰金3万円の判決が出たが控訴、88年3月の名古屋高裁では執行猶予がついた。その間に外国人登録法の改正も進み、14歳から3年毎だった指紋押捺も16歳に1回だけになった。
 日本政府はもう流れに逆らえなかった。難民条約や国際人権規約にも加盟して、グローバル社会の一員となろうというのに、時代錯誤の人権侵害をやっている場合ではなかった。そのことを教えてくれたのは、指紋押捺拒否運動だった。
 「これなら次の裁判では無罪が出るのではないか」と期待が高まった時に、想定外の事態が起こる。1989年1月に天皇が死去し、「大喪の礼」に伴って外登法違反の罪は政令恩赦(大赦令)の対象になったのだ。9月の最高裁では「免訴」、つまり起訴自体がなかったことにされてしまった。
 「恩赦なんて、まっぴらごめん。拒否声明を出したが受け入れない。悔しかったですね。自分の法廷での陳述も法務省側の発言も、全てが公的記録として残らなくなってしまったわけだし」
 韓国では大統領が交代するたびに「恩赦」がある。それは極めて政治的なのだが、日本の恩赦もやはりそういうものだったようだ。

やっと韓国に行ける 
 その2年後、韓さんは家族を連れて韓国に留学した。1991年のことだ。一足先にソウルで暮らしていた私は、それなりのお世話をしたらしい。
 「息子の保育園のことなんかも教えてもらったよ」
 私についての記憶は、この時から始まっているそうだ。先に韓国暮らしをしていた「先輩」なので、彼はずっと年下の私のことを「ヌナ(姉さん)」だと思いこんでいたという。
 その頃の韓国は1987年の民主化と翌年のソウル五輪で、かなり開放的な国になっていた。盧泰愚政権はソ連や中国などの東側諸国との国交を樹立し、それまで入国を制限されていた国の人々にも門戸が開放された。ベルリンの壁が崩壊し、1990年には東西ドイツも統一した。
 「今なら行けるかも」、と韓さんは思った。
 朴正熙軍事政権下では在日韓国人の留学生が「北朝鮮のスパイ」として引っ張られることは茶飯事だったし、また韓さんのように海外で民主化運動に関わった人間は入国すら認められない時期があった。韓さんの旅券申請はしばらく保留にされた後に承認され、やっと祖国の土を踏めることになった。
 「知っている人が韓国領事館の情報担当官に、韓くんは北朝鮮を支持する人間ではないと話してくれたようです」
 ただ、心無いことを言う人もいたらしい。
 「あいつは何か一筆書いたに違いない」
 イデオロギーで分断される社会がどういうものか、在日コリアンの皆さんはよく知っている。半世紀かけて壁を乗り越えてきた人々にとって、今になって内々で「右か、左か」と小さな壁を作り続ける日本社会はどう見えるだろうか。

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