移動する人びと、刻まれた記憶

第2話 国境の島の梨畑②
対馬に移住した韓さんの話(後半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第2話の後半です。日本と韓国の境にある対馬から見えるものとは?

済州島4・3事件と対馬
 その国境を越えて、かつて 多くの遺体が対馬に流れ着いた ことを、私は今回の旅で初めて知った。
 海岸に流れ着いた遺体は韓国の服を着ていた。朝鮮戦争の少し前のことだったという。初めは住民が薪で火葬していたのだが、その数は戦争中もどんどん増え続けたため、火葬はあきらめて海岸に集めて埋葬したそうだ。遺体の数は何百体にも及んだといわれている。
 その場所に2007年5月、供養塔が建てられた。建てたのは地元で建材業を営む江藤幸治さん(66)である。お父さんが亡くなる少し前に、初めて遺体の話を聞いた。お父さんは遺体を埋葬した場所に江藤さんを連れて行き、この人たちの供養を引き継いでくれと頼んだそうだ。
 「親父の遺言でしたからね。家族でずっと供養をしていました」
 家族の細々とした取り組みが、やがて周囲の知るところとなり、2018年にはその供養塔の隣に、もう一つの石碑が建てられた。そこには済州島出身の詩人金時鐘(92)の言葉が刻まれている。

 常に故郷が海の向こうにある者にとって、
 海はもはや願いをつなぐ祈りでしかない。

 1948年に済州島で起きた民衆蜂起に対して、李承晩政府と米軍は武力で制圧した。朝鮮戦争中まで続いた「済州4・3事件」では 3万人もの島民が亡くなり、多くの遺体が海に投げ捨てられた。海岸に流れ着いた遺体が済州の人々であるのは、当時の地元新聞も報じていた。
 弾圧から逃れて日本に亡命した詩人にとって、そこは故郷の人々が埋葬された場所だった。

梨は実るだろうか?
 江藤さん一家が続けていた供養は、2018年から日韓市民の合同慰霊祭になっていた。そして、私たちは何も知らずに対馬を訪れたのに、到着した日がその慰霊祭の日だったのだ。
 不思議な偶然に驚きながらも、私たちは済州島から来た巫堂(ムダン)が死者の魂を慰める声を聞き、遺族会の代表による江藤さんへの感謝の言葉を聞くことができた。4・3事件の遺族の多くが、家族の遺体にすら対面できていない。遺族の多くには供養をちゃんとできなかった無念が残っている。
 今は穏やかに見える海の国境も、多くの悲しみが往来していた。
 偶然に遭遇した慰霊祭のせいで、対馬の話が広がってしまった。ただ、それまでの話に付け加えるなら、戦後、韓国に戻れなかった在日コリアンには、済州4・3事件の関連者も多かった。歴代の軍事政権は事件を「共産主義者の起こした暴動」と決めつけ、当人ばかりではなく家族まで迫害したため、故郷に戻ることを断念した人も多かったのである。

 最後はやはり「対馬に移住した韓さん」の話に戻ろう。10代の頃からの念願だった農業者としての第一歩を、還暦を過ぎてから踏み出した農民・韓基徳。果たして梨畑はうまくいくだろうか?
 「じゃあ梨の実がなったら知らせてくださいね。次は収穫のボランティアに来るから」
 別れの挨拶はいつも再会の約束だ。
 「おいおい成果だけを摘み取ろうってか。それまでが大変なのに」
 そうだった。蜂がいないのだ。
 「たしかに。じゃあみんなで受粉の手伝いに来ますよ。受粉に」
 「受粉の手伝い」という語感が妙で、みんな笑った。
 今年も花は咲いたという。ならば実を結ぶ日も来るだろう。