移動する人びと、刻まれた記憶

第3話 釜山のロシア人街①
赤いカーディガンを着た女性とヴィクトル・ツォイへの思い(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第3話です。戦後にサハリンに取り残された人びとについて、そして釜山のロシア人街へ――。

ソ連崩壊と釜山駅のロシア人街
 釜山港に停泊するロシア船員たちが、釜山駅前の「テキサスタウン」に姿を見せるようになったのはその頃だった。彼らは大量の韓国製品を買い入れて、本国に持ち込んで売りさばいた。「テキサスタウン」という名称は在韓米軍用の歓楽街を指すものであり、ソウルでいえば梨泰院にあたる街だ。在韓米軍の縮小で衰退した街が、90年代に入って「ロシア人の街」として蘇ったのである。
 当時のニュースなどをネット検索すると、それに関する大量の記事が出てくる。例えば、「ロシア人釜山訪問急増でロシア人特需」(1992年10月31日付聯合ニュース)という記事によれば、この年にウラジオストクとサハリン、カムチャツカなどから船でやってきたロシア人は4万9670人とある。またロシアの船員たちが釜山で使うお金は1人当たり1800ドルであり、これは日本人やアメリカ人観光客よりもはるかに多かったようだ(https://n.news.naver.com/mnews/article/001/0003614363?sid=102)。
 ゴルバチョフによるペレストロイカは人々に自由と希望を与えたが、経済政策が伴わず、政権末期は極度の物不足に襲われていた。モスクワやレニングラードでパンを求めて並ぶ人の様子がニュースで流れ、続くエリツィン政権下では急激な市場開放が超インフレ状態を招いた。この経済的失敗は2000年のプーチン政権誕生につながるのだけれど、そこまでは話は飛ばない。
 それよりも重要なのは、記事にあった次の一文だった。
 「一部の商店ではサハリン同胞の永住帰国者やロシア語専攻の大学生を店員として雇用して商品販売をしている」(同上)
 ここに出てくる「サハリン同胞の永住帰国者」がどういう人々であるかは、日韓の歴史の中でとても重要である。

サハリンに取り残された人々
 戦前、サハリンの南半分(南樺太)が日本の領土だったことはよく知られている。終戦記念日の特集番組などには、今はロシア領となった故郷の島を懐かしむ引揚者が登場することもあるが、その引揚船に乗れなかった約4万人についてはあまり語られない。
 韓国で「サハリン同胞」と呼ばれるのは、その人々のことである。日本の植民地時代に南樺太で暮らしていた朝鮮半島出身者の、韓国への集団帰国が実現したのは、それから半世紀近くもたってからだった。
 在留日本人の引き揚げは1946年12月の「ソ連地区引揚に関する米ソ協定」によって始まったものの、協定は「日本人俘虜」と「一般日本人」が対象であり、朝鮮半島出身者は外されていた。
 戦争が終わったのに、なぜ故郷に帰れなかったのか? 米ソ占領軍はなぜ日本人だけ帰国させたのか? 日本政府はそれまで日本人だった人々を見捨てることに躊躇いはなかったのか?
 第二次世界大戦後、米国とソ連は世界中に分断をもたらし、今も多くの民族や家族が引き裂かれたままだ。ソ連はその責任をとることなく解体してしまい、米国は責任をとると言ってさらに傷口を広げることもした。かたや日本は旧植民地の人々を様々な制度から徹底的に排除した。

サハリン生まれの芥川賞作家、李恢成
 多くの分断がそうであるように、ここでも切実だったのは家族と別れ別れになった人々だった。まさか今生の別れになるとは、その時は誰も思わなかったからだ。日本にはその当事者として作品を書き続けた人がいる。サハリン生まれの在日朝鮮人作家、李恢成の代表作で後に映画化もされた『伽倻子のために』(1970年、新潮社)や、芥川賞受賞作となった『砧をうつ女』(1972年、文藝春秋)などには、著者が10歳まで暮らしたサハリンでの体験や、残された祖父母や親族についての思いが書かれている。
 多くの人々はすぐにでも故郷に帰りたいと思っていたという。韓国への帰国を望む人々の嘆願は、日本・ソ連・韓国政府に届けられていたが、長らくソ連と韓国の間に正式国交はなく、また北朝鮮との関係もあってソ韓両国は問題解決に消極的だった。
 なおさら日本の責任は重大だった。そもそも問題の道義的な責任が旧宗主国日本にあるのは明白だった。戦争が終わった時点で彼らは「日本人」だったのだから。
 日本政府と国民がこの問題での責任を自覚するようになったのは、1980年代になってからだった。旧樺太在住の韓国人や日本の市民団体の粘り強い運動が実を結び、1989年には日韓赤十字が「在サハリン韓国人支援共同事業体」を発足させ、1990年代に本格的な母国訪問と永住帰国が始まった。日本政府はそれにかかわる渡航費や永住者用マンションの建設費などを拠出することで、遅きに失したとはいえ責任の一端を果たせることになった。現在まで約4000名がサハリンから韓国に永住帰国をしている。
 その中の誰かが、釜山駅前のロシア人街で働いていたということだ。