移動する人びと、刻まれた記憶

第4話 赤い牌楼はいつできたのか?①
チャイナタウン復活を夢見た、二人の老華僑の思い出(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第4話です。今回は、釜山の「上海街」から華僑の人びとの話を語ります。

倭館と清館
 上海門は新しいが、街の歴史は古い。かつて老華僑たちはここを「清館通り」と呼んでいた。「清館」とは清国領事館を意味する李朝時代の言葉である。釜山に「清館」ができたのは19世紀末、それ以前から「倭館」があった日本人居留地の隣町につくられた。
 江戸幕府同様、長らく鎖国状態にあった李王朝が「開国」を迫られたのは1874年、なみいる列強を抑えて一番乗りしたのは、なんと6年前に明治維新を果たしたばかりの新興大日本帝国だった。20余年前米国に押し付けられた屈辱の不平等条約を、そのまま李朝政府に突きつけた。
 「江華島条約」によってこじ開けられた港は、仁川・釜山・元山の3か所だった。開港と共に各国の租界が作られ、釜山でも日本人の移住が始まっていた。清国も日本に遅れて釜山に租界を設けるのだが、その規模は仁川などに比べても決して大きくはなかった。仁川の清国租界もやはり日本租界に隣接して設けられていたが、こちらは対岸の山東省と行き来する清国商人たちによって大きく発展していた。
 現在の「上海街」は観光目的で造成されており、過去の面影を留めない。唯一、街の歴史を伝えるのは「釜山華僑学校」ぐらいだろうか。かつて清館があった場所に建てられた学校には、今も華僑の子どもたちが通っている。
 実はチャイナタウンを象徴するのは、きらびやかな牌楼や提灯などではなく「学校」である。世界各地のチャイナタウンには、移動した土地で華僑たちが子どもたちの教育に力を入れた痕跡が残されている。

釜山華僑学校
 釜山の華僑学校はいつ出来たのだろう? 学校のホームページを見て驚いた。沿革という文字をクリックして、最初に出てきた写真には真っ黒な軍用テントが写っていたからだ。
 「民國39年6月 韓戰爆發,漢城華僑初級中學避難來釜」
 表記は全て台湾式であり、年号の「民国」は孫文を臨時大総統として中華民国が成立した1911年を基準とする。それから39年後の6月、つまり1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ソウルの漢城華僑初級中学校が釜山に避難してきたとある。
 当初は近郊の山の麓に5つのテントを設営して授業が行われた。ホームページには大型の軍用テントと生徒たちの写真が掲載されているが、周囲には山と畑があるだけだ。
 「激しい風、照りつける太陽、雷雨、山犬の来襲」などの厳しい環境にもかかわらず、生徒数は翌51年6月には70人余り、7月には137名に増えたと記録されている。しばらくして、現在の場所に仮校舎を建設。その後、53年7月に朝鮮戦争が休戦すると、全生徒の約半数がソウルに戻ったとある。
 漢城華僑中学の「校史」はもう少し詳しい。
 「6月25日に朝鮮戦争が勃発すると学校の授業は一時停止、10月に国連軍がソウルを奪還したのちに授業を再開。1951年1月に戦況が逆転し、国連軍が南に撤退すると、本校もまた釜山に避難した」
 朝鮮戦争は北朝鮮軍の奇襲に始まり、開戦からわずか3日でソウルを占領されている。9月の仁川上陸作戦でソウルを奪還、ところが10月末の中国軍参戦でまたしても戦況が逆転した。そのことは韓国人なら誰もが知っている。多くの避難民が釜山を目指したことも国民的記憶だが、その時に在韓華僑の人々が何を考え、どう行動したのかはあまり知られていない。
 華僑学校の校史には朝鮮戦争のさなか、避難先の釜山で行われた卒業式の記述もある。そこにある一文を見て少し混乱した。
 「相率投考祖國軍校,以備與祖國共存亡」
 この祖国とは韓国なのか、台湾なのか。彼らの故郷は中国の山東省である。

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