移動する人びと、刻まれた記憶

第4話 赤い牌楼はいつできたのか?①
チャイナタウン復活を夢見た、二人の老華僑の思い出(前半)

韓国から、世界へ。世界から、韓国へ。人が激しく移動する現代において、韓国の人びとはどのように生きてきたのか? 韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第4話です。今回は、釜山の「上海街」から華僑の人びとの話を語ります。

在韓華僑にとっての祖国とは 
 1953年7月に朝鮮戦争は休戦となるが、南北は分断されたまま多くの離散家族を生んだ。それは在韓華僑も同じだった。彼らの99%は中国大陸の出身であり、90%の人々の故郷は山東省だった。1992年の中韓国交樹立まで、そこを訪れることが許されなかった彼らもまた、離散家族となったのである。 
 故郷から切り離された彼らが祖国としたのは、台湾に政府をおく「中華民国」だった。彼らは蔣介石が率いる国民党を支持することで、政治的に「祖国」と一体化した。
 在韓華僑出身の研究者である王恩美はそれについて、「韓国華僑の外なる『故郷』と内なる『祖国』」(『ディアスポラから世界を読む』2009年、明石書店)という表現を用いている。
 「韓国華僑は台湾という土地には無縁で愛着心がないにもかかわらず、中華民国という『祖国』は、韓国華僑社会で政治から、華僑の心の内面にまで影響力を発揮する。まさに『内なる』存在であった。しかし、中国大陸が共産化することによって、華僑の『故郷』は、政治的にはもちろん心理的においても拒絶しなければならない、まさに『外なる』存在であった。」(同書)
 彼らは「祖国」を選択したのだろうか?

華僑たちの選択
 中国文学専攻だった学生時代、横浜中華街の華僑たちと交流があった。当時、華僑総会も華僑学校も二つに分裂していた。中華人民共和国か中華民国か、彼らには各々の選択の理由があった。私は祖国を選ぶという態度に感銘を受けた。生まれながらの日本人という、ぼーっとした態度ではいけないと、その時の私は思った。
 ただ在韓華僑の場合はそれとも違っていた。韓国で暮らす以上、選択肢は台湾の中華民国しかなかった。ひょっとしたら、彼らが選択したのは「祖国」でなく、「韓国」だったのかもしれない。
 朝鮮戦争が始まったときに、台湾からは華僑が避難するための船舶が送られたというが、大多数の華僑は韓国にとどまった。孫さんも避難先の大邱で親戚の中華料理店を手伝いながら料理を覚え、休戦からしばらくして仁川に戻って店を開いた。
 「みんな美味しいものに飢えていたからね。チャジャンミョンが大人気になった」
 戦争で壊滅的となったチャイナタウンにも、再び光が戻ったかに見えたという。ところが1970年代になって、そんな華僑たちが一斉に韓国から出ていくことになる。孫さんも韓国生まれの在韓華僑2世の奥さんや子供を連れて日本に向かった。

(後半につづく)

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