遠めの行路に印をつけて

ピックアップ・アレクサンドリア(2) 
海上

甲板で出会った旅人3人組と犬2匹。話も風体も浮世離れをしていて、話せば話すほど、強張っていた気持ちが和らぐのだった。

 吹きさらしの甲板に出てくる人はおらず、プールに入る人もなく、たまに初老のアメリカ人男性がグルグルとジョギングしているだけだった。海は静かで天候不順だったのが噓のように晴れ続きだった。

 オイレとマヌエルは大工だった。数年かけてアフリカを旅するつもりなんだという。ユーシフは、バーゼルでアーティストをしていた。ギャラリーもついて順調に活動していたけれど、バーゼルでの生活が合わなくて今後のことを考えに帰郷するのだという。彼が着ているウールの黒いコートは古ボケていたし、黒く縮れた髪も伸び放題で、現代人に見えなかった。彼はバーゼルを出てヴェネツィアに着いて船の遅延を知り、出発まで港の駐車場で野宿していた。

「なあ、フレッドってイタリア語でなんて意味なんだ?」

「寒い、だよ」

「あー。通りかかったイタリア人たちがみんなフレッドフレッドって言うんだよ。僕は暖かい寝袋があったから全然寒くなかったんだけど。フレッドフレッドって」と笑う。

「そりゃ寒かったもの。私は船がその日は出ないって聞いて銀行に駆け込んでリラを換金した。ニューイヤーの休みに入るところだったからね。あと10分遅かったら文無しになるとこだった。それから公衆電話を見つけて引き払ったばかりのユースホステルに電話したり。大変だったー。オイレたちは船が出るまでどこにいたの」

「ドイツの家だよ。出発前に船会社に電話して確認したから」私とユーシフの苦労話に戸惑いを見せながら、のんびりと答える。うーん。一日前に電話でリコンファームしていれば、あんなに慌てて走り回らなくても良かったのか。

「ねえ、ヨーヨーとヤマはどこにいるの?」

「車の中だよ。本当は甲板に連れてあがっちゃいけないんだけど、ずっと閉じ込めていたら可哀想だからこっそりあげてるんだ」

 ここでようやく私はこの図体の大きなフェリーの乗客の大半が、自動車と共に乗船していることに気がついた。アフリカ大陸を自分の車で旅したい人たち、もしくはエジプト人がイタリアもしくはヨーロッパのどこかの国で働いて車を買い、車と大きな荷物と共に帰国するのに、このフェリー航路を利用するのだろう。自動車の乗船代金があって採算が取れていたのだろう。なるほどそういうことなのね。

「働いてお金を貯めてキャンピングカーを買ったんだよ。50年代のベンツのキャンピングカーだよ。これからアフリカ大陸を旅するつもりなんだ」

 「彼らの車は本当に大きくてイカしてるんだ」とユーシフがまるで自分の車のように嬉しそうに言う。

 ベンツというと都会を走る高級車のイメージだったので、キャンピングカーと聞いてもピンと来なかった。そもそもキャンピングカー自体見たこともなかったので暇つぶしも兼ねて見せてもらうことにした。

 ラウンジや船室を抜け階段を降りていき、車両甲板に入る。金属や機械油の匂いが混じる。鉄工所のような空間に、貨物トラックや自動車がみっしりと詰まっていて仰天した。こんなに沢山の車が乗っていたなんて。私やユーシフのように身一つで乗り込んできた二等船客の方が少数派なのかもしれない。

 オイレたちのキャンピングカーは、前後左右とトラックや普通自動車がひしめいていて車全体を見渡すことはできなかったけれど、バスくらいの大きさがあることはわかった。車の中からヨーヨーとヤマの嬉しそうな吠え声が聞こえる。

「ほんとうに大きい車なんだねえ。家みたい」

「良かったらカイロまで乗っていくかい?」

「え、いいの?」

「うん。ユーシフも乗っていくよ。大きいから大丈夫」

 アレクサンドリアに着いてからどうするのか、具体的には何にも考えていなかった。一緒に行くはずだった人のことをグズグズと考えてしまい、これが見たいやりたいという意欲が湧いてこない。せっかく時間を作って旅に出ているのだから切り替えて楽しまないとと思うのだけど、どうにもならない。ただ漠然と前から二人で決めていた通りに地中海を渡り、アラビア半島のルブアルハリ砂漠を目指してみるしか思い浮かばないのだった。

「カイロに行けば君が行きたいと思っているアラビア半島の情報も手に入るんじゃないかな」

「そうか。そうだね」

 日本を出る前にアラビア半島の日本語ガイドブックを探してみたけど見つけられなかった。ヴェネツィアでも英語のガイドブックがないか書店に入ってみたけれどダメだった。エジプトならイギリス支配の歴史もあるから英語の本も沢山ありそうだ。

 知り合って間もない彼らの車に乗っけてもらうことについて、用心する気持ちよりは好奇心が勝った。三人ともこれまで日本で生きてきて出会ったことがないくらい浮世離れしており、社会の喧騒から遠く弾き出された静けさがあった。どうにもならないでいる私の身の上話を聞いても全く動じず、あ、そう。まあ、よくあることだよ、と特に同情も心配もされずに静かに返されたのが、妙に心地よかった。もう少しだけ彼らと一緒にいたかった。