移動する人びと、刻まれた記憶

第5話 「幸福の国」を探す①

韓国フォークの開拓者、ハン・デスの旅(前半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第5話前篇です。1960年代末にアメリカから独裁政権下の韓国へ戻ってきて歌い始めたフォークシンガー、ハン・デスについて。ぜひお読みください。

「ニューヨーク、1967」
 古びた網戸のある窓、褐色の肌をした1人の少年は大きな瞳で何を見ているのか。キャプションは「ニューヨーク、1967」、ハン・デスが19歳の時に撮った写真が1枚目だ。2枚目の写真も小さな子どもたちで、その中で1人黒人の少女だけがこちらを見ている。犬を連れた夫婦、壁にもたれて眠るホームレス。そしてにぎやかな雑踏の写真までが、すべて「ニューヨーク、1967」である。路上で倒れた人の写真は「ニューヨーク、1968」、そこに短い言葉が添えられている。
 「Help! I need somebody  誰も助けなかった」

 ハン・デスは1948年に釜山で生まれた。彼の祖父は高名な神学者だったか、息子であるハン・デスの父親は原子物理学を専攻して、49年に米国のコーネル大学に留学した。植民地支配からの解放と同時に米ソ対立の最前線となった朝鮮半島の知識人にとって、核や原子力について学ぶことは時代的な要請だったのだろう。
 まだ赤ん坊だったハン・デスと母親は釜山に残ったのだが、その父親は彼が7歳の時に米国で失踪してしまう。祖父は四方八方に手を尽くして父親を探したが見つからないまま両親は離婚、ハン・デスは母親と引き離されて祖父母と暮らした。

韓国→米国→韓国→米国
 1958年、彼は宣教師として招聘された祖父とともに米国に渡る。ニューヨークの小学校に転校したハン・デスが、米国にも英語にも路地サッカーにもなじんだ頃に、祖父の任期が切れて釜山に戻ることになった。米国にいる間も、父親は消息不明のままだった。 
 1962年、転校先の釜山の中学校は坊主刈りと学生服、ハン・デスは韓国式の暗記教育に苦労したという。その頃の韓国といえば、4・19学生革命で打倒された李承晩に代わり、クーデターで政権を掌握した朴正熙大統領の時代となっていた。軍人出身のリーダーが牛耳る韓国社会は、教育現場も軍隊式だった。
 それでも14歳のハン・デスは必死になって勉強して、翌年には地元釜山の名門高校に合格した。祖父母がとても喜んだという。でも彼はその高校を卒業することはなかった。行方不明だった父親が発見され、彼は再び米国に向かうことになったのだ。
 1964年11月、ハン・デスは17年ぶりに父親と再会することになる。「ずっとお父さんに会いたかった」という。夢にまで見た父親との暮らしだった。でも父親と新しい家族との暮らしは、彼に幸せをもたらさなかった。
 「その年(1966年)、ロングアイランドの汽車に乗って父の家に帰りながら『幸福の国へ』を作った。私は父親に対して、自分をとりまく状況が耐えきれないほどつらくて、爆発してしまいそうだった。あまりにも悲しすぎて、幸福の国に行きたかった」(『生きるという苦しみ』200頁)
 写真集にある彼の短い自伝的エッセイを読んで驚いたのは、独裁政権下の韓国で書かれたと思っていた『幸福の国へ』が、実は米国で作られた歌だったことだ。彼はエッセイに短く書き加えている。「私の国である韓国もまた、私のように悲しい状況だったのだ」

カウンターカルチャー全盛の米国から、独裁政権下の韓国へ
 彼はしばらくして父親の家を出る。せっかく合格した大学の獣医学部を辞めたことで祖父からの援助も打ち切られ、アルバイトをしながら写真学校に通う。ハーレムでの極貧生活だったが、その時から彼は写真を撮り始めていた。写真集にある一番古い写真は1966年、18歳の彼がバイト先のレストランで撮ったと思われる写真だ。タイルの床に座り込んで休息する従業員は、腕組みして何かをじっと考えているように見える。
 彼は写真が詩であることに気づいていた。英語と韓国語で書いてきた詩は、一枚の写真になる。カウンターカルチャー全盛時代のニューヨークで、ようやく居場所を見つけた彼だったが、またしても人生は流転する。今度は10歳の時に別れた母親が彼を探し出したのだ。ずっと会いたかったお母さんが呼んでいる。彼は全てを投げ捨てて、ソウルに向かった。

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