移動する人びと、刻まれた記憶

第5話 「幸福の国」を探す①

韓国フォークの開拓者、ハン・デスの旅(前半)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第5話前篇です。1960年代末にアメリカから独裁政権下の韓国へ戻ってきて歌い始めたフォークシンガー、ハン・デスについて。ぜひお読みください。

「ソウル、1969」
 写真は昌慶苑(現在の昌慶宮)で、ボートに乗る女学生ののどかな風景から始まる。ニューヨークと同様、ハン・デスはソウルでも子どもたちや街の人々の写真をたくさん撮っている。坊主刈りの少年、路上にしゃがんで何かを見つめる子ども、少女たちの笑顔もある。
 働く人々の写真も多い。新聞売りの少年、リヤカーを引く女性、鹿の角をいっぱい担いだ男性。ハン・デスはそれが韓方薬の原料だと知っていただろうか? 
 これらの写真には何の説明もない。キャプションは全て「ソウル、1969」。雪の日に傘を差して路上にたたずむ人はホームレスなのだろうか。私たちはそこがどこなのか、その人は何をしているのか、何を見て何を思っているのか。想像するだけだ。
 背負子(しょいこ)を道路標識に立てかけて、それを椅子のようにして昼寝をしている男性の写真がある。荷運びの途中で休憩しているのだろうか? 足を宙に浮かせて絶妙なバランスで眠る男はユーモラスだ。
 男性にきっちり合わせた焦点はするどく、奥行きのある街の風景から鮮明に浮き出ている。脇をしっかり締めてカメラを構える20歳のハン・デスの姿を思い浮かべてみる。写真集は、彼がデジタルカメラに変えた2007年以前の、フィルム時代の作品だけで構成されている。
 ニューヨークとソウルの風景はつながって見えた。コントラストよりも、その連続性のほうに驚いた。
 写真は誰が選んだのだろう?
 大量のネガの中から選ばれた100点余りの写真、それらは何かのテーマに沿って選ばれたのだろうか。それを聞きたくて、写真集を出した出版社ブックハウスに連絡してみた。    翌週、ソウルで担当編集者のホ・ヨンスさんに会えることになった。

彼だけの独特の視線がある
 「写真を選んだのは私です。ハン・デスさんからフィルムをデジタルに変換したデータをもらって、そこから写真を選びました」
 ブックハウスは地下鉄2号線の合井駅の近くにあった。懐かしい気持ちになったのは、ソウル郊外に大規模な出版団地ができる以前は、この周辺に出版社が集まっていたからだ。2つ隣の新村駅近くでは、5年ほど前までハン・デスが家族と暮らしていた。彼は今、ニューヨークに戻っている。
 ホ・ヨンスさん、すでに3冊ハン・デスの本を出している。今回の写真集も彼女から企画を提案したという。
 「子どもや働く人やホームレスの写真が多いですよね。あえて、それらを選んだのですか? そもそも、そういう写真が多かったのですか?」
 「ほとんどがそんな写真でした。彼だけの独特の視線があります。風景写真などはなくて、必ず人がいる。人々の人生を写している」
 両親との別離と再会、そのつどやってくる長い旅が、ハン・デスを早く大人にしたのだろうか。彼はもう生きるという痛みを知っていたのだろうか。 I suffer therefore I am、本の表紙にある英文のタイトルを何度も見た。
 「ハン・デスは韓国で最初のシンガーソングライターです。私はずっと下の世代なので当時のことは知らないのですが、40歳以上の韓国人で彼の『幸福の国へ』を知らない人はいません。韓国にとって、ものすごく重要なアーティストです」

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