ちくま文庫

大森先生の印税はどうなったか?
阿川弘之『カレーライスの唄』

 昭和の娯楽小説の傑作。滅法面白いこの本を読み進めていると、森繁久彌やフランキー堺や三木のり平たちが大活躍する昭和の喜劇映画を思い出す。腹を抱えて笑い、登場人物の誠実さゆえの不器用に「もう!」とやきもきさせられもしたモノクロ映画の、俳優たちの軽快な声が読むのに没頭している私の脳内で何回もこだまする。そうでしょうとも! 阿川弘之『カレーライスの唄』は、渡辺祐介監督の映画『カレーライス』の原作にもなっている。
 舞台は傾きかけた出版社「百合書房」である。主人公の桜田六助はハリキリ屋で誠実な青年編集者。敬愛する小説家・大森貞一郎先生の本をやっとのことで上梓したのに、会社の台所事情は火の車に陥っている。ついに百合書房は倒産し、大森先生の印税も、滞納されたままだった社員の給料支払もまったくもって当てにならない。
 雲ひとつない青空。六助はすっからかんの無職になった。六助と相棒の鶴見千鶴子はどうなるのだろう? 大森先生に印税は支払われるのか? 印税が入らない小説家ほど哀しいものはないのだ。そもそも印税って何? そして大森貞一郎という立派な文字面。ここからそこはかとなく立ちのぼるおかしさはなんだろう。それは私が配役として大泉滉を脳内に固定していたからだろうか? などと、ページをめくる指が止らないのである。
 この本が執筆された昭和三十六年は戦争が終わって十六年目、日本は神武景気、岩戸景気を迎えた高度経済成長に湧いていた。株のブームが起き、素人投資家にも「マネービル」という言葉が流行していた。でもまだまだ生活に関わる物価は安くてカレーライスが「一と皿百円」、家庭用黒電話は全部の家にあったわけではなく、新幹線もまだなかった時代である。その頃の大人たちは戦争のどん底だった頃の苦い記憶を腹の底に沈めて、口ぶえを吹きながら上向きの希望で満たしていた。その希望は『カレーライスの唄』のなかで、“株式”とさまざまな食べ物のエピソードによって軽快に描き出されている。
 六助は千鶴子とふたりで「ありがとう」という店名のカレー屋さんを開く一大決心をする。わけあって千鶴子が購入した「川武サンタ・アンナ」というおもしろい名前の会社の株が高値を更新すれば、資金が増えてカレー屋の開店が近づくという案配だ。株を知らない私でさえ、動向が気になって気になって仕方がなくなるし、読み終える頃には「株って面白そうだな」と胸の奥に折れ線グラフが登場するだろう。
 千鶴子がスキー場でナンパされたカレー粉会社のぼんぼんと味わったアイスチョコレート。これは、手のひらひとすくいぶんの雪を、ころころっと丸くして、上からチューブ入りチョコレートを垂らすデザート。即席天然かき氷である。ひやっこい雪玉に甘くて苦い味は、一瞬だけ恋に落ちてしまいたくなる味。
 日本橋のレストランで千鶴子が食べた「まずいランチ」に私は目から鱗が落ちた。サラリーマンやOLでごった返すなか、千鶴子はビーフ・シチューをひと匙口に運ぶ。「この程度のものを出していても、こんなに人が食べに来てくれるなら……。」と、千鶴子は確信する。まずいランチが、カレー店開業に希望を持たせてくれたのだ。
「……このランチのように、ゴタ盛りでない、そのかわりほんとに気のはいったおいしい品を二つか三つ用意して、それで評判をとれば、わたしたちのお店だってさぞ……」
 千鶴子の計画はいよいよ具体的になってゆく。これを読むとまずいランチもすてたもんじゃないのだった。と同時に、六助よ、早くカレーの店を完成させておくれ! とわくわくする。
 六助が打ち明けるお店のマッチ箱のアイデアにも、胸がぽわんとあったかくなる。六助っていい男だなあ。そして大森先生の印税がどうなったかは、ぜひ本を読んで確かめてください。

(あさお・はるみん イラストレーター・エッセイスト)

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