両手を失った鈴彦を連れて屋敷に戻ってからは、惨憺たる狂乱だった。
窟穴彦(クチナヒコ)の前では冷淡な態度を崩さない母が、大きな少女のように泣き叫び、窟穴彦の体を執拗に揺さぶった。
「お前、わざとだろう。お前、私を恨んで、わざと、鈴彦の手を切ったのだろう」
違うと何度説明しても、窟穴彦の弁解を聞く者は阿多の屋敷にいなかった。
切られた両手は手術で接着したが、今後どのような影響を鈴彦の将来に及ぼすのかは、誰にも分からなかった。意識を取り戻した鈴彦が、状況を説明しても、窟穴彦が鈴彦の立場を羨み大怪我をさせたという認識が揺らぐことはなかった。
「鈴彦をこのような目にあわせたお前には、祭祀の資格も、帝の身辺を護る近衛となる資格もない。阿多家として、宮殿への参内を許すことはできない。道は、断たれたと思え。今からお前は、宮廷武人ではなく、職業武人として生きる覚悟をせよ」
介彦に呼び出され、阿多一族の前でこのような宣告を受けた時、窟穴彦はしばらくの間、顔を上げることができなかった。
宮廷随一の武官である隼人には、階層がある。まず大きな分類として、「宮廷武人」と「職業武人」の二種がある。「宮廷武人」は宮殿への参内が許され、「職業武人」は参内が許されない。阿多隼人の本家に属する窟穴彦は、帝の身辺を護衛する近衛部隊や、祭祀に関わる宮廷武人となる将来が暗黙のうちに約束されていた。その道が絶たれた今、窟穴彦は将来、宮殿に出入りすることは許されず、山で帝の墓所を守る職業武人となるほかないのだった。
しかし考えれば、介彦のあの宣告があったから、窟穴彦はかろうじて須城に入学することができたのだ。参内を許されない、本家の出自では考えられない身分に落ちたとはいえ、あの宣告がなければ、問答無用で手酷い私刑を受け、死よりも苦しい状況に置かれたに違いない。母は、罰が軽すぎると随分ごねた。
父は自分の味方になることはなかったが、敵にもならなかったのは、血縁があるという情からだろう。
*
人語を話す、目の前の山猫の声に聞き覚えがある気がしたのは、鈴彦を思い出したからだろうか。
黒ずんだ硝子瓶から顔を出した人為が、突如跳ね上がり、山猫の首元を食いちぎった。続け様に山猫の前脚に歯を立てようとした瞬間、窟穴彦は木陰から飛び出していた。
刀を振り薙いだ。人為の小さな首は簡単に落ちて、動かなくなった。
窟穴彦は我にかえり、素早く山猫へと切先を向けた。山の獣は決して人に懐かない。死に狂いの獣は、手当たり次第に、目の前の敵に襲いかかる。
その力もないようだった。山猫はよろめきながら、地に倒れ伏した。
「痛い」
「お前、人の言葉を話せるのか」
思わず、声をかけていた。大きな山猫の背を手でさする。
「おい。死ぬなよ」
「阿呆。死んでたまるか」
山猫は金色の瞳を窟穴彦に向けると、獣とは思えないほど器用な唇の動きをした。人為に食いちぎられた首元から、血の泡が立っている。手で塞いでやると、学生服に熱い血が滴り垂れた。嫌な記憶が呼び起こされる。
「医務室に連れて行く。お前が何者なのか、何をしていたのかは、その後で聞こう」
山猫は大きく息を吐いた。窟穴彦の手元で、ごぼごぼと音が鳴った。
「見てたなら、分かるだろう。あの人為は、病気だ」
「なんだって?」
「鈍いな。お前、隼人だろう」
猫に憎まれ口を叩かれ、窟穴彦も怒るより戸惑いの方が大きかった。
「人為は、潔斎を受けた人間ばかりを襲う。それがあいつは、俺のような獣を襲うんだぜ。そんなの、見たことあるか? 前に、俺の里が、人為の群れの襲撃を受けた。その理由が分からずにいたが、やはり、人為の変異が起きているんだ。その証明が、やっとできるのに」
窟穴彦も、特殊な動き方をする人為が出現しているという噂を、知り合いの隼人連中から聞いたことがあった。
「俺は、八瀬童子が薬を撒いていると聞いた」
「そんな訳、ないだろう。八瀬童子は、俺のことだ」
窟穴彦は目を見張った。その時、山猫が大きく震えだした。
「寒い」
山猫は微かな瞬きの合間に、虚ろな目をした。窟穴彦は学生服に山猫を包み、しっかりと胸に抱きかかえた。
「助けてやるから、死ぬな」
とはいえ、窟穴彦もこの暗い森の中で、どちらに進めばいいのかも分からない。
(とりあえず、烏山の灯りに向かおう)
山猫を背中にかつぐと、頬にまで血が垂れてきた。足を進めようとした時、ふと、山猫が掻いていた硝子瓶を眺めた。足先で蹴飛ばしてみる。何も動かない。瓶の底には、小さな虫や獣の死骸が厚く積もっている。死骸は人為に喰われたようで、ほとんど殻のような状態だ。
山猫の話を思い出す。意を決して、先ほど斬った人為の死骸も瓶の中に蹴り込み、傍に落ちていた赤い風呂敷で固く包み込んだ。さほど大きくない。山猫を包み込んだ学生服のポケットに、赤い風呂敷包はおさまった。
烏山に光る灯火を目指し、鎮守の森に足を踏み入れようとした時、後方から微かな足音がした。
鋭く振り返った先には、白い襟を光らせた、瑠璃色の制服に身を包んだ少女が立っていた。
(つづく)