ちくま文庫

謎の余韻に酔いしれる  
ヘレン・マクロイ著『牧神の影』 解説より

6月刊行のヘレン・マクロイ著 渕上瘦平訳『牧神の影』より、山崎まどかさんによる解説文を公開します。ミステリ作品の解説なので、謎の核心をめぐる部分は一部割愛してあります。元の解説文はぜひ書店店頭でどうぞ。

 ヘレン・マクロイの書くミステリーが好きだ。でも、どういう訳か、過去に読んだ作品を思い出そうとしても、魅惑的な謎の発端については覚えているのに、その真相については思い出せないということが多い。

 事件の真相がつまらないから、忘れてしまうのではない。事件と同じくらい、その解決編にもときめいた記憶だけは残っている。『暗い鏡の中に』に出てくる、女性教師のドッペルゲンガー。『二人のウィリング』で偶然に精神科医ベイジル・ウィリングが見た、自分の名前を騙る別の男。『あなたは誰?』の冒頭で、ナイトクラブの美しき歌手のフリーダにかかってくる脅迫電話。マクロイの探偵役であるウィリングは驚くほど論理的にその不思議を解き明かす。しかし、からくりが分かっても「正体見たり枯れ尾花」にならないのがヘレン・マクロイのミステリーだ。犯罪の直接的な動機が金銭問題や怨恨であっても、そこには何か単純な人間の心理を超えたものが絡んでいる。パズルは解けたはずなのに、物語はまだ神秘のヴェールをまとっているかのようだ。謎が醸し出すムードが香水の残り香のように残る。私が思い出せるのは、その香りに陶然としたという事実だけだ。

 今の時点では、私はまだ『牧神の影』の犯人も、このミステリーの中心となっている暗号についても、その解き方も思い出せる。でも、しばらくしたら記憶に残るのは別のものかもしれない。ヒロインのアリスン・トレイシーが深夜の電話を受け取る前の、逃れがたい運命が待っているという予感については、きっと覚えている。それはギリシア文学の元教授である伯父フェリックス・マルホランドの突然の死を告げる電話だ。アリスンがその伯父と暮らしたニューヨークのアッパー・イーストの邸宅と、周囲の家の裏庭の壁を取り払った共同庭園についても覚えているだろう。そこは伯父がなくなった後、アリスンが過ごす山荘とも共通するような、無防備な空間である。誰でも邸宅に入ってこられる。そして、邸宅に入り込んでくるのは人間と限らない。庭園に伯父が置いたギリシアの大理石のニンフ像は、ミステリアスな神話世界とこの庭園が隣り合わせになっていることを暗示しているかのようだ。不思議なものが霧のように正常な人間世界に忍び込んできて、恐怖を煽る。山荘では、それは牧神の影という形を取る。アリスンが見た牧神については、きっと私は忘れない。牧神【ルビ:パン】がパニックの語源だということも忘れないはずだ。

 1940年代に書かれた小説らしく『牧神の影』には、戦争の気配がする。本土で銃撃戦こそないが、戦争はアメリカの人々の心をはっきりと蝕んでいる。猜疑心に取りつかれ、拠り所を求めて極端な思想に走り、被害妄想と恐怖にかられて他人を攻撃しようとする。この小説の背景にあるのは、そんな戦時中の暗い心理だ。その心理が牧神という姿で現れるという幻想性がたまらなく魅力的である。ドビュッシーの管弦楽が聞こえてきそうな、優美な謎だ。

 私はミステリーにおける登場人物の服装や邸宅のインテリア、食事などのディテールに目がない。犯人のエラーや、秘められたメッセージ、容疑者たちのパーソナリティといったものがそういう細部に隠れている。そのディテールの描写が細やかであればあるほど、推理の過程は楽しくなってくる。ヘレン・マクロイのファッションやインテリアのディテールは豊かで趣味がいいだけではなく、事件の謎と分かち難く結びついているものが多い。だから私は事件の真相をはっきりと思い出すことが出来なくても『暗い鏡の中に』のレモンバーベナの香水は忘れないし、『あなたは誰?』のチョコレート・リキュールも忘れない。それらは事件の真実を包む美しい包装紙とリボンのようなものだ。

 ヘレン・マクロイのミステリーに登場する女たちはいつも、美しい服を着ている。その描写を読むのは、マクロイの本を読む大きな楽しみのひとつだ。ファッションは言動以上に人物を物語っている。『二人のウィリング』のとある登場人物は、純金の糸で織られた裏地のついた黒いビロードのドレスを着ている。彼女が動くと、火の粉が散ったようにその裏地が服のひだの間できらめく。美しいけど、この女性は剣呑だ。触るときっと、火傷する。『あなたは誰?』で脅迫電話を受け取るフリーダは、婚約者の家にレースの縁取りのある色とりどりの繻子【ルビ:サテン】のスリップを持っていく。壊れやすい女性の象徴のような繊細なランジェリーだが、婚約者の母親はそれが一流のクリーニング店でないと手入れが出来ない代物だと見抜く。フリーダはお金のかかる女なのだ。

『牧神の影』のアリスンは二十三歳で、どちらかという女学生のような服装をしている。彼女と対照的な女性として出てくるヨランダ・パリッシュの洗練されたファッションとのコントラストが面白い。ヨランダは、自分の弟であるジェフリーとアリスンが親密なのが気に入らない。彼女は白いシャークスキンの袖なしドレスに赤いベルトというスタイルで登場する。アリスンが情緒不安定だと他の人間を納得させようとする時は、白いサージのスカートに真紅のセーターだ。純白の服を着たヨランダは汚れのない女性であるかのように見えるが、シャークスキンやサージという張りのある生地を好む彼女は、決して優しくもなければ、柔らかな感受性も持ち合わせていない。触ってみるとごわっとしていて固い白い服に、欲望を感じさせる鮮やかな赤の色を合わせている。ヨランダがどういう女性か、そして彼女のファッションに気圧されているアリスンがヨランダをどう見ているかがよく分かる。ところが終盤になるとヨランダの服装は変わり、「フワフワした薄い黒服」とディテールさえも急に曖昧になるのだ。アリスンはこの時点では、彼女のことをもう脅威だとは感じていないのである。

 エレガントなヨランダに対して、アリスンの服はフラットな靴が似合いそうなものが多い。伯父が亡くなった朝には、「平底のモカシン」を履いている。オックスフォードやローファーほどではなくても、柔らかな皮で作られたモカシンは1940年代でも男女共に履ける靴としてそれなりの人気があったのだろう。そしてこの小説においては、モカシンという靴が暗号と同じくらい私には大事なのだ。真相を知ったミステリーをもう一度読むことは滅多にないが、私はヘレン・マクロイの作品は時折、読み返す。彼女の作品は何度読んでもミステリアスであり、色褪せない。


※ヘレン・マクロイ『牧神の影』解説を転載。(一部割愛しています)

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