東京β

東京のランドマーク変遷史
東京タワーからスカイツリーへ

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電化時代のランドマークの変遷

 明治期から大正期にかけて、東京随一の賑わいを見せていた浅草の凋落は、1923(大正12)年の関東大震災の直後から急速に進む。十二階は地震を機に倒壊、その真下に広がっていた私娼街は近くの玉ノ井に移転した。六区を代表する文化の1つだった浅草オペラも人気を失い、街全体の活気が失われていった。

 当時の本所や深川などの「貧民窟」の住人たちの生活も、明治から大正にかけて大きく変わっていく。第一次世界大戦を機に、日本は造船業などを中心とした産業の急速な発展期を迎え、本所、深川周辺は、工場地帯として急速に発展していった。これまでは多種多様な雑業に就いていた「都市下層民」の多くは、工場労働者となって東京下町の産業化を下支えする存在になっていく。

 浅草十二階なき東京の新しいランドマークは、こうした産業の変化を象徴するものだった。東京電燈の千住火力発電所の四本の巨大煙突、通称「お化け煙突」が完成したのは、1926(大正15)年のことである。

 この煙突は、すでに第一章でも取り上げたが、十二階からは、ほぼ真北に5キロくらいの場所(現在の足立区千住桜木1丁目)に立っていた。煙突の高さは、83メートルだった。浅草十二階よりも高かったので、ランドマークとして機能したことは間違いない。

 当時、この火力発電所が建てられた千住の川岸は、葦で覆われた原っぱだったという。隅田川、荒川沿いの地域、いわゆる城東地区は、大正時代に急速に増えた零細工場が建ち並ぶ地域である。当然、千住火力発電所は、この地域一帯への電力供給を担う存在であり、「常用発電力が不足したときの補給火力や予備としての役割を担った」(姫野和映『お化け煙突物語』)ものであったという。

 浅草十二階ができた頃にはまだ一般家庭には電気が普及していなかったが、徐々に電気は、一般家庭においても欠かせないものになっていった。

 家庭の電灯普及率は、1907(明治40)年の2%から、20年後の1927(昭和2)年には87%まで急上昇した(東京電力・電気の史料館)。1916(大正5)年には、東芝の前身である芝浦製作所が扇風機の大量生産を開始するなど、家電の時代がこの頃からすでに始まっていたのだ。

お化け煙突が描かれた下町映画

 大正末期に操業を開始し、太平洋戦争では空襲の被害を受けなかったお化け煙突は、戦後の復興期から高度経済成長期前半(1953~63年頃)に作られた映画によく登場していた。

 1953(昭和28)年の五所平之助監督作品『煙突の見える場所』では、冒頭に煙突の姿が象徴的に映され、騒々しい下町での生活が描かれる。

 田中絹代、高峰秀子という名女優が出演。彼女たちが演じる2組の夫婦・同棲男女は、同じ下町の一軒家の1階、2階で生活を送っている。近所のラジオ店のラジオの音に始まり、工場の騒音、お経の声と、ここでの暮らしの中では、とにかく騒音が鳴り止まない。急速な都市化を背景とした下町の手狭な住宅環境、さらには工業化、マスメディアの登場による人々の生活の変化が織り込まれた気忙しいコメディである。煙突は、こうした下町の象徴として画面に登場するのだ。

『煙突の見える場所』

 お化け煙突が存在していた1926~64年とは、太平洋戦争を挟んではいるが、戦前には主に機械生産の軽工業、戦後は重工業の発展がめざましかった時代である。

 東京では、葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区といった界隈を城東地域と呼ぶが、この辺りには下町と呼ばれるような地域が広がっていた。それらは具体的には小規模の工場とそこで働く人たちの町の近くに形成されていった個人経営の店舗、商店街で構成される町のことである。

 1960年代の青春映画には、下町を舞台としたものが多かった。再び、お化け煙突が登場する映画を取り上げよう。吉永小百合主演の映画『いつでも夢を』(1963年)は、看護師をしながら夜学に通う少女を主人公とした下町の物語だ。

 工員の浜田光夫と工場の運転手である橋幸夫は、吉永を慕う恋敵同士である。浜田はサラリーマンになることを夢に持ち、夜間高校にも通っている。空気の悪い下町から出るには、工員を辞めて会社員になるほかないのだ。そんな貧しい彼らの日常を見守るように、お化け煙突はそびえ立っている。

 あるとき橋と吉永は、橋の母親の東京見物を兼ねて東京タワーに上る。ここの展望室から彼らが住むお化け煙突がある方向を眺めるシーンが印象的である。

 お化け煙突と東京タワー。この2つのランドマークが同時に東京に存在していたのは、東京タワーが誕生した1958(昭和33)年からお化け煙突が取り壊された1964(昭和39)年までの短い期間にすぎない。本作は、お化け煙突の実物がスクリーンに映る最後の映画と言われている。

 サラリーマンになって下町での生活から抜け出したいという浜田の夢は破れる。彼は就職試験に落ちてしまう。それでも彼は悲観しない。浜田は下町での生活に喜びを見出し始めていた。日本がホワイトカラー中心のサラリーマン社会へと移行しようとしていた時代に、下町の側の青春を描いた作品である。

 お化け煙突が象徴していたのは、その役割からもわかるように電化時代の東京の発展と言えるだろう。それは、工業化の時代と重なるものである。だが、煙突のある風景となると、それはそこに従事する下町の人々と結びつかざるをえない。お化け煙突が象徴したものとは、下町の人々の生活そのものである。

芝公園に建てられた総合電波塔

 高さ333メートルの東京タワーが完成したのは1958(昭和33)年。戦後、電気炊飯器や冷蔵庫といった家電の普及がひと通り進むと、今度は娯楽の道具であるテレビが家庭へと浸透していく。その新時代を象徴する電波塔=東京タワーが、新しいランドマークとして、高度成長を成し遂げる日本経済の中に君臨するのである。

 東京タワーの建設計画が持ち上がったのは、日本のテレビ放送開始から2年を経た1955(昭和30)年頃のこと。すでに放送を開始していた日本放送協会(NHK)、日本テレビ、ラジオ東京(現・TBSテレビ)に加え、新たにNHK教育テレビや富士テレビ(現・フジテレビ)、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の参入が決まった。

 それまでは各放送局が個々にテレビ用の電波塔を持っていたが、各局の電波を統一して総合電波塔から発信したほうが効率がいいという結論にたどりつく。

 その意見をまとめる形で登場したのが前田久吉である。産経新聞、大阪新聞の社長を務め、のちに関西テレビの社長となる前田は「新聞界の風雲児」と呼ばれていた。関西の前田は、東京のどの局の立場にも偏らない第三者の立場に立ち、1957(昭和32)年に電波塔の管理会社である日本電波塔株式会社を設立。東京タワーの建設計画を実行に移す。

 総合電波塔の建設候補地は、最初から芝公園に決まっていたわけではない。当初検討されていたのは上野公園だった。だが上野の土壌は300メートルを超える高層の建築物を建てるには、湿気を帯びすぎていた。そこで代替案として挙げられたのが芝公園の現在の土地である。この時に重要視されたのは、海抜18メートルという標高だったという。放送電波を発する場所として、高いほうが適していたのだ。

 芝公園は、元々徳川家の菩提寺である増上寺の境内だった。その土地が明治になり割譲され、大部分は芝公園となった。また戦中のこの辺りは空襲の被害で焼け野原となった場所でもある。東京タワー建設時には、再び増上寺の土地(墓地)の一部が提供されてもいる。もし当時、東京タワーの建設場所が上野公園という最初の計画で貫かれていたら、その後の東京の発展は違うものになっていたはずだ。

関連書籍

速水 健朗

1995年 (ちくま新書)

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