俺たちはどう生きるか

【第4回 美容】セルフケアとしての美容──俺たちはなぜ自分を雑に扱いがちなのか〈後編〉

ミドル世代にかぎらず、多くの男性は「自分を雑に扱いがち」。そんななかで、「セルフケアとしての美容」を実践すると、何がどう変わるのでしょう? そもそも、男性たちが自分の身体を丁寧に扱おうとしないのはなぜなのか? 清田さんがズドーンと衝撃を受けた本たちの力を借り、考えを深めていきます。ぜひお読みください。 

自分を知ることが美容の入口?

 外見のことを気にしなくて済むという〝男性特権〟がある一方、身体をいたわる習慣やスキルが育まれず、それが「自分を雑に扱いがち」という傾向につながっているのではないか──。前編では、男性たちの抱えるお悩みエピソードなどを紹介しながら、そんな「美容と中年男性」をめぐる現在地を確認してきました。後編ではまず、美容の問題と格闘してきた先達たちに学ぼうということで、私と近しい世代の女性たちが書いた本を紹介していきたいと思います。

 漫画家・田房永子さんの『いつになったらキレイになるの?〜私のぐるぐる美容道〜』は、昔から美容に興味のなかった著者が、35歳の頃から始まった急速な見た目の変化に戸惑い、ダイエットやエステ、ダンスやパーソナルカラー診断など、試行錯誤を繰り返しながら自分なりの美容やオシャレを見出していくコミックエッセイです。

 怪しげな断食道場の合宿に参加したり、ゆるふわコンサバファッションを目指した矢先になぜか刈り上げヘアにしてしまったり、健康維持のために飲み始めたサプリメントの副作用で性欲が爆発してしまったりと、田房さんが全力で右往左往していく様子が魅力の本ですが、絶えず心身の揺れ動きを観察し、ときにトラウマやコンプレックスなどとも向き合いながら、自分自身をなんとか肯定していこうという姿勢が根底に息づいているのが魅力です。田房さんは主に毒親問題やジェンダーをテーマに扱ってきた作家で、同じく美容や外見の悩みと向き合った『呪詛抜きダイエット』という作品もありましたが、長年抱えてきた体型のコンプレックス、社会から受ける有形無形の圧力、忌み嫌っていた母親に容姿が似てきた苦しみなど……様々な苦悩や呪いと格闘するなかで「この容姿で生まれてここまできた 自分の運命そのものを肯定したいんだ!」と思い立つ瞬間は、とりわけ胸の熱くなるシーンでした。

 美容の第一歩は「自己理解」ではないか──。そんな教えを授けてくれるのが、トミヤマユキコさんの『40歳までにオシャレになりたい!』です。著者は「女子マンガ」と呼ばれるジャンルの研究者であり、大学教員として現代文学やカルチャーを教え、ライターとしてはパンケーキや「ネオ日本食」と名づけた食文化を扱う著書があり、様々なラジオ番組に出演し、NHKの高校講座「家庭総合」ではMCを務め、おまけに私とも『大学1年生の歩き方』を出版しているという、とにもかくにも仕事の幅が広い人なのですが、そんなトミヤマさんが〝門外漢〟の立場から美容やファッションと向き合った異色のエッセイ集となっています。

 特徴はなんと言っても、著者のあらゆる仕事に共通している〝研究〟的なまなざしで、この本ではそれが体型や骨格、性格やセンス、加齢による変化、肌質やメイクの技術など、自身のさまざまな要素に向けられていきます。自分を直視するって、実は結構怖いことじゃないですか。必ずしも自信のあるところばかりではないと思うので。例えばトミヤマさんも、加齢に伴って首や胸まわりの肉が落ち、それが腹部に溜まってきた自身の体型を見て「人は平等にたるんでゆくものだなあ(つらい)」と嘆いたりするのですが、「逆に言えば鎖骨がきれいに見えるってことじゃん!」とすぐさま思考が反転し、鎖骨見せファッションを模索する方向へ進んでいくのがこの本のユニークなところです。長所とか短所とか、魅力とかコンプレックスとか、そういう「価値判断」には向かわず、身体をよくよく観察した上でその特徴やメカニズムを分析し、そこから自分に合ったメイクやファッションを見つけ出していくスタンスは、まさに〝研究〟という言葉がしっくりくる。このように、自分を知ることが美容の入口だとするならば、私たち中年男性でも一歩踏み出せそうな気がしてきませんか?

「男は鈍感なほうがいい」という規範

 それにしても、男性はなぜ自分を雑に扱いがちなのでしょうか? というか、そもそも「雑に扱う」とはどういうことなのか……。私自身を振り返ってみると、それはすでに小学生のときから始まっていたような気がします。例えば私は小3のときに地元のサッカー少年団に入り、毎日のように友達とボールを追いかける暮らしをしていましたが、炎天下での練習も多かったなかで、日焼け止めを塗ったことは一度もありませんでした。男子校に通っていた中高時代はお菓子やファストフード、脂ギトギトのラーメンやお弁当のようなものばかり食べていたし、美容面でも、雑に眉毛を抜いたり、スクラブ入りの洗顔料で顔をゴシゴシこすったり、ニキビを指で潰したりということをくり返していました。同級生と一緒に風呂なしアパートを借りていた大学時代などは、お酒の飲み過ぎや不規則な睡眠などでお世辞にも健康的な生活とは言えなかったし、社会人になってからも、シャキッとするためエナジードリンクを常用したり、ハイカロリーな食べものでストレスを発散させようとしたりする癖がなかなか抜けません。コロナ禍になるまで、小まめに手を洗う習慣すらありませんでした。

 私が特別に不健康で不衛生な生活を送っていたとは思いません。似たような経験をしてきた人は少なからずいるだろうし、特に若いうちは、具合が悪くなるとか、嫌なニオイがするとか、耐え難い痛みが生じるとか、そういうわかりやすい問題が起きない限りはそれでなんとかなってしまったりもする。また、厳密に(科学的に?)見ていけば、すべての行動が悪というわけでもないでしょう。確かに紫外線は肌にダメージを与え、乾燥やシミなどの原因になってしまうものですが、一方で肌の健康に必要なビタミンを生成する効果もあったりする。ハイカロリーな食べものやエナジードリンクも同様で、メリットとデメリットの両方があるわけですよね。だから必ずしも否定されるべきものではないのですが、それでもなお自分を雑に扱う行為だと感じるのは、そこにそもそも「身体を丁寧に扱う」という発想が欠けているからではないでしょうか。

 美容って、どんなことから始めたらいいの?と訊かれたら、最初に伝えたいのは、「自分の肌にやさしいタッチで触れましょう」ということ。普段から「やさしく触れる」を意識してほしいのはもちろんだが、スキンケアの広告に出てくるような両手で顔全体を包み込むポーズ「ハンドプレス」をぜひとも取り入れてみてほしい。某化粧品メーカーの研究で、クリームをハンドプレスで塗り込んだときとそうでないときを比べると、快感情が高まり、肌も綺麗になるということが実証されている。使うアイテムはいつもと同じでもいいので、目を閉じてゆったりと深呼吸しながらやさしくハンドプレスでなじませてみて。普段スキンケアに熱心じゃない人なら、かなり違いがわかるはずだ。(『美容は自尊心の筋トレ』第一章より)

 美容ライター・長田杏奈さんは、2019年の話題書となった著書『美容は自尊心の筋トレ』のなかでこのようなことを述べています。ハンドプレス……動作としては極めてシンプルなものですよね。「なんだ、そんなことか」と思うかもしれませんが、そこには顔と近しい温度の手のひらを使い、肌にできるだけ刺激を与えず、毛穴の奥まで栄養を染み込ませるようにイメージしながら、ゆっくり、じっくり、顔全体を温かく柔らかいもので包んでいく──という発想が息づいています。このように、〝身体〟に対する気づかいや想像力を伴いながら日々を暮らしていくのが「丁寧に扱う」ということで、私たち男性にはこの発想が決定的に欠けているように思えてならないのです。

 それは、なぜなのか。私のケースで言えば、昔からある程度はスキンケアに意識的だったものの、その動機は「汚いおじさんになりたくない!」という恐怖にも似た思いで、身体を丁寧に扱おうというものではありませんでした。その発想や具体的な方法をどこかで教わった経験はなかったし、学校や会社、メディアなどでは男性の身体は雑に扱われがちで、「そういうものだ」という感覚がインストールされていた部分も正直あります。また、この社会には「男は鈍感なほうがカッコいい」「身体のことを気にする男なんて軟弱だ」といったジェンダー規範があり、私の中にもそれは内面化されていて、例えば人前で日傘や日焼け止めを使うことに恥ずかしさを覚えてしまうところもありました。「自分を雑に扱いがち」という傾向はそれらが絡み合って形成されているものだと思いますが、はたして、私たちはそれを放置したままでいいのでしょうか。

美容を通じて様々な変化を体験

 前編でも紹介した『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』は、アラフィフ世代のライター・伊藤聡さんが美容に開眼し、奥深き美容の沼にハマっていく様子がつづられたドキュメンタリータッチの一冊です。著者はある日、〈放っておいてもどうにかなる、動きさえすればいい、という雑な扱いをしてしまっていた〉と、身体に対して無関心なまま生きてきたことを自覚し、〈そろそろ自分の身体についてまじめに考えるタイミングが来た〉と一念発起します。そしてドラッグストアのスキンケアコーナーへ足を運び、最初は何もかもわからず立ち往生してしまったものの、そこから猛勉強を始め、実際に試して効果を実感し、知人女性にもアドバイスを求めながら知識と経験を積み重ねていきます。

 洗顔の心得、日焼け止めの重要性。化粧水や乳液はどう選べばいいのか、美容液とはなんなのか。そうやって一つひとつ学びを重ねていった伊藤さんは、やがてスキンケアの手順をマスターし、メーカーごとの特徴を把握し、美容業界に飛び交う専門用語を覚え、製品に含まれる様々な成分の効能まで理解できるようになっていきます。その様子はさながらわくわく感に満ちたRPGのようで、初心者目線でナビゲートしてくれる著者とともに美容の世界を冒険している感覚が味わえてとにかく楽しい。またこの本には、伊藤さんが美容に詳しくなっていく様子だけでなく、その過程で自分自身と向き合い、身体の微細な変化を感じ取れない自分や、身体の不調をとりあえず放置しがちな自分、なぜか黒い服ばかり選んでしまう自分などに気づいていくプロセスも描かれており、それらを通して〝男らしさの呪縛〟を見つめ直す内容になっている点も興味深いところでした。

 一人の中年男性が、美容を通じて様々な変化を体験していく──。そのプロセスを追うなかで、私は大量の「ときめき」と「うるおい」を浴びた気分になりました。カラカラの大地に水が染みこんでいくような、キーキーと音を立てる自転車のチェーンに油を差したような、手入れをしていなかった革製のシューズにクリームを塗ったような、そんな質感の何かがページをめくるたびに立ち上がってきて、「俺もこんな感じを味わいたい!」と、紹介されていたスキンケア製品を、突き動かされるような勢いで買いに行きました。選んだのは、〈使い心地のいい製品ばかり〉と紹介されていた花王「キュレル」シリーズの「皮脂トラブルケア 化粧水」と、同じく花王の製品で、〈洗顔直後になじませれば、その後どんな化粧水を使ってもどんどん肌が吸収して、もちもちに変化する〉と激推しされていた「ソフィーナiP ベースケアセラム 土台美容液」の2つでした。

 もとから使っていた洗顔石けんや保湿クリームにそれらを加え、より丁寧なスキンケアを心がけ始めて約1か月。見た目が劇的に変化したとかではもちろんありませんが、自分自身としては確かな手応えを感じています。ネットで石けんを泡立て、やさしく撫でるように顔を洗い、「毛穴の約1/20サイズの炭酸泡」による土台美容液を顔全体に浸透させる。そして化粧水をハンドプレスでたっぷりなじませ、仕上げに保湿クリームでフタをしてみると……肌が明らかに弾力を取り戻し、皮膚の奥まで栄養を染み渡らせたような、そんな気分にもなれる。肌の触り心地がなめらかになった喜びに加え、そこには物理的に肌がきれいになる以上の何かが宿っていました。

皮膚は人体を覆う最大の臓器

 さて、本稿のテーマは「セルフケアとしての美容」です。前編でも述べましたが、美容とは自分を大切にする習慣を身に付けていくことではないかと、つくづく感じます。私たちの身体は疲れるし、痛むし、荒れるし、衰えるわけですよね。そういうものであることを前提に、ケアやメンテナンスをしていこう、心地よい状態を保っていこう、自分の美しさを磨いていこうというのが美容という営みなのだと思います。

 みなさんは自分の身体のなかで、好きなところはありますか? 私の場合は手の甲がお気に入りで、皮膚のキメが細かく、透き通るような質感で、なめらかでハリもあり……つり革につかまっているときや自転車に乗っているときなど、ついうっとり見入ってしまう瞬間も少なくありません(危ない)。これは「手の甲きれいだね」と何度か人から褒められるなかで気づいたことで、30代になるまでそんな認識はまったくなかったのですが、お気に入りのパーツになって以来、保湿や紫外線対策をことさら意識するようになりました。

 身体を大事にするって、やはり手間のかかることではあると思うんです。ちょっと日に当たっただけで「焼けてしまう」「乾燥してしまう」なんて心配が生じるのは自分でも正直面倒だなって思うし、ことあるごとに日焼け止めを塗り直すのもなかなか大変です。でも、そうやってケアし続けている部分を見てうっとりする時間には想像以上の癒し(=セルフラブ?)効果があるし、身体に対する想像力を養うことは他者とのコミュニケーションにも直結していて、今で言えば子育てなんかが顕著で、例えば子どものオムツを替える際、子どもにご飯を食べさせる際、子どもをお風呂に入れる際、子どもを公園で遊ばせる際など、相手の身体に思いを馳せることで初めて適切なケアが提供できる瞬間が山ほどあるなと痛感します。

 皮膚研究の第一人者である傳田光洋さんは、著書『驚きの皮膚』などを通じ、私たちの皮膚が持つ知られざる機能や能力について解説しています。いわく、およそ120万年前に体毛を失った人類は、環境との接点である全身の皮膚感覚を発達させることで生き延びてきた。人体を覆う最大の臓器であり、外界から身を守るバリアとしても機能している皮膚は、「触覚」としては圧力や振動、伸縮や凹凸、温度や痛みなどを感じているが、「意識にのぼる」という意味での知覚はできないものの、音や光を感知しているという点では「聴いている」「見ている」とも言えるし、それどころか、気配を察知したり、予知や思考をしたり、何かを記憶したりということもしている。また皮膚感覚は、例えば「ざらざら」「固い」「肌が合う」など人格や人間関係を示す表現としても多用されており、そういった観点からも、皮膚が人間にとっていかに重要なものであるかがわかる──。

 これまで述べてきたように、人間は大きな脳を持ち、そのために複雑な道具や言語や社会組織を作り出してきました。その原点には皮膚感覚の存在が大きな寄与をなしてきたと私は考えています。

 皮膚感覚が意味を保つシステムでは、個人の存在がないがしろにされる可能性は低いでしょう。なぜなら視聴覚情報システムの海に溺れていても、皮膚感覚は、個人を取り戻すきっかけになるからです。皮膚感覚だけは個人から離れて独り歩きすることはないのです。

 今、ひととき立ち止まり、私たちの祖先が生きてきた、その営みを振り返り、皮膚という人間にとって最大の臓器の意味を考え、システムの在り方について検証しなおす時期が来ているのだと思います。(『驚きの皮膚』第六部より)

 ここで言う皮膚感覚と、化粧水や日焼け止めで皮膚をケアすることが、具体的にどう関係していくのかは正直わかりません。科学的な意味で効果がある部分もあれば、直接的には関係していない部分もあるはずで、だからこれはある意味で比喩的な話になりますが、それでもなお、身体を丁寧に扱うことは、イコール自分という存在を大事にすることだと思えてなりません。それは自己理解を深めることであり、自分のなかに生じた微細な変化に気づくことであり、意識されていない身体の声に耳を傾けることでもある。どれも、私たち中年男性にとって足りていないものですよね。身体のケアやメンテナンスは確かに大変だし、毎日そのことを意識し続けるなんて不可能だけど、できそうなことから試してみるのはいかがでしょう。美容にはそれらを取り戻し、育んでいく力があると思うので!

 

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