怪獣ビーコンがもたらした東京タワーの停波
1971(昭和46)年8月27日に放送された『帰ってきたウルトラマン』の第21話「怪獣チャンネル」では、東京タワーが停波するエピソードが描かれている。
深夜4時、テレビが終わっている時間にもかかわらず、テレビに旅客機が飛んでいる映像が放送されていた。電話で連絡を受けた怪獣退治の専門チームMATの郷隊員は、「テレビ? こんな時間にやってるわけないでしょう」と迷惑そうに応答する。1973年の第一次オイルショックのときに、深夜0時以降のテレビ放送が休止したことがあるが、これはそれよりもさらに昔のこと。深夜番組といってもせいぜい0時を回る頃に終わってしまっていた時代である。
深夜4時のテレビ画面に映っていた旅客機は、光線を浴びて墜落する。これは偽の映像ではなかった。東シナ海を飛んでいた実在の旅客機が同時刻に墜落していたのだ。そして、この墜落の映像は、通信衛星を経由し、ニューヨーク、モスクワ、ハワイと全世界に中継されていた。
この不思議な事件は、人為的なものではなく電波怪獣ビーコンの仕業によるものだった。ビーコンは、電離層に住み、電波を吸収し、エネルギーにする特性を持った新種の怪獣であり、さらにこの怪獣の目に映ったものは映像信号に変換され、中継衛星を通じて全世界に中継されてしまう。MATの研究所は「ビーコンの身体全体がテレビ局の機能を兼ね備えている」と分析した。今回の怪獣退治は、慎重に行う必要がある。MATの行動は、失敗も含め、すべて全世界に中継されることになるからだ。
「いいかへまをするんじゃないぞ。我々の戦いは、ビーコンのカメラアイを通して、世界中に中継される恐れがある」というのは、MAT隊長の言葉だ。MATのような実力行使に関わる組織にとって、士気高揚、上意下達の指揮系統の維持のためにも組織の評判を貶めるわけにはいかないのである。
やがてビーコンが、多数の電波が飛び交う東京の近くに姿を現すことは必至である。このままビーコンの接近を許すと、東京はあらゆる情報が麻痺し、大パニックになる恐れがある。実際、ビーコンの接近により、レーダーを使った飛行ができなかった航空機同士の正面衝突事故が発生する。
こうしたぎりぎりの状況でMATが考案した作戦は、東京タワーの停波をはじめ、東京中のすべての電波を停波させるというものだった。東京上空に電波が飛んでいない状況をつくり出し、東京湾上を飛ぶMATの戦闘機から出した電波でおびき寄せることで、都市部への被害を食い止める作戦である。だが、それを実行し、電波を止めることによる社会的損害も莫大な規模にのぼる。まさに最後の手段としての東京タワー停波作戦である。
しかし、この作戦は失敗し、ビーコンは東京に侵入してしまった。1人の少年がアマチュア無線機の電波を発したためである。いまとなっては想像すら難しいが、1970年代には、アマチュア無線が中高生のおたく的趣味の王道だった。MATとはいえ、個人の無線利用を制限することは難しかったようだ。
ウルトラ怪獣の中には、ビーコン以上の強敵がたくさん存在したが、文明社会にとっては、広域の電波障害を引き起こすビーコンほどやっかいな怪獣はいなかったはずだ。
この「怪獣チャンネル」のラストは、冒頭で深夜四時の中継を観てしまった少女の家に戻る。少女が深夜に目を覚まし、再びテレビをつけると画面には砂嵐だけが映っている。ビーコンはウルトラマンの手で倒され、世界の平和は保たれたのである。
生中継という体験とリアルタイムメディアの時代
ビーコンという怪獣が、「身体全体がテレビ局の機能を兼ね備え」ていた部分はとてもユニークだ。当時のテレビ局ですら、局のスタジオ以外の場所から即時生中継をするのは、まだ困難だった時代である。
衛星を使った中継放送の歴史を振り返ると、初の日米間テレビ衛星中継が行われたのは、1963(昭和39)年11月のこと。そこで伝えられた内容が、ケネディ暗殺だったというのは有名な話である。
放送用の静止衛星が打ち上げられ、長時間の中継放送が可能になったのは、1964(昭和39)年の東京オリンピック以降のことだ。当時、渋谷のNHK放送センターから送出された大会の映像は、電波として小金井の電波研究所、筑波山と地上を経由し、茨城県の鹿島地上局から静止衛星へと送出が行われた。その5年後、1969(昭和44)年7月のアポロ11号の月面着陸は、世界中の注目を集めた衛星生中継の歴史のもっとも大きな事件となった。
衛星中継ではないが、1970(昭和45)年の大阪万博では、毎日お祭り広場からテレビ中継が行われ、世間的にも日常的なスタジオ外からの生中継が身近なものになる。そして、その技術が事件報道と結びつくのは、「怪獣チャンネル」が放送された翌年の1972(昭和47)年のことだった。
この年の2月、あさま山荘にたてこもった連合赤軍のメンバーたちと機動隊の銃撃戦の模様は、連日事件現場である軽井沢から長時間による生中継が行われた。
あさま山荘銃撃事件をテレビで見た建築家の黒川紀章は、「今までは結果の報道であったテレビが、ニクソン訪中の中継と同様、生であることに驚きを感じた。事件のプロセスを犯人たちも見ている。いや見られていることを知っている。事件はオンタイムで見ることができる大変な時代になったと思う」(久能靖『浅間山荘の真実』)と述べている。
当時、日本テレビのアナウンサーとして、この事件を報道した久能靖は、自著の『浅間山荘事件の真実』の中でその中継の具体的な手法について触れている。その頃の事件現場からの生中継にはマイクロ波が使われていた。あさま山荘のあった軽井沢と東京間で遠距離の中継を行うためには、パラボラアンテナを積んだ中継車を複数繋ぐ必要があり、電電公社(現・NTT)の鉄塔を間に挟み、三段中継で放送されたという。
「テレビ局の機能を兼ね備えている」ビーコンが、怪獣と戦うMATの最前線での戦闘の模様を、すべてテレビ中継してしまうという「怪獣チャンネル」は、こうしたテレビのメディア状況を先取りしていたのだ。
この頃から人々は、テレビを映画の代わりの娯楽としてではなく、新しい体験を与えてくれるメディアとして受容していくようになるのである。
テクノポリスTOKIOという読み替え
1980(昭和55)年1月1日。当時の民放各局は、同じ内容の年越し番組『ゆく年くる年』を放送していた。1980年代が始まる〇時の瞬間に日本で同時に流れたCMでは、電飾の付いた服を着て、パラシュートを背負った沢田研二が歌う姿が流された。
沢田研二の代表曲「TOKIO」は、こうしたど派手なプロモーションでもって世間に浸透していったのである。この歌において、沢田研二は「東京」という都市を「スーパーシティ」=「TOKIO」と読み換えて歌っている。この「TOKIO」は、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」の中で、坂本龍一がヴォコーダー(音声圧縮センサー)を通した人工音声として発声されていたものでもあった。
「テクノポリス」のシングルの発売は1979(昭和54)年10月。「TOKIO」の収録アルバムはその1カ月後の11月に発売されている。YMOのスタッフと「TOKIO」の作詞者糸井重里の間には、CM音楽プロデューサーの大森昭男を筆頭に重なる関係者も多く、同時進行の企画だったと考えるべきだろう。この辺りは『みんなCM音楽を歌っていた ―― 大森昭男ともうひとつのJ-POP』(田家秀樹)に詳しい。
この頃のYMO、糸井重里、沢田研二らが「TOKIO」として表現した都市のイメージとは、コンピューターやシンセサイザーという電子技術が発達した日本の産業と超高層ビルが建ち並び繁栄する大都市東京を結びつけたものである。これは、西洋の視点、つまり異文化として見た東洋世界を自らが演じるといった屈折したオリエンタリズムとでもいうべき東京=TOKIOの再解釈でもあった。YMOも当時、アメリカやヨーロッパで評判となり、日本に逆輸入される形で知られていった。こうした倒錯をおもしろがる文脈で、「TOKIO」というフィクションとしての都市像が、1980年代のメディア空間を通じて広がっていくことになる。
1980年代は、日本企業の躍進が世界で注目され、東京が金融、文化などで重要な影響力を持つ「世界都市」となっていった時代でもあった。同時に世界の中の日本という意識が芽生え始めた日本人は、自らの首都である東京のあり方にプライドを持ち始めていた。
1980年代のポップカルチャーに描かれる東京タワーは、こうした「世界都市」としての東京を象徴する存在としていく度も登場するようになる。
1980年代に都会的な恋愛をモチーフとしたポップスを多く生み出したのは、松任谷由実と角松敏生である。松任谷由実は「手のひらの東京タワー」という曲を、1981(昭和56)年に石川セリに提供した。この歌は、東京タワーからの眺望、つまり都市そのもの(「ハイウェイも港も」)をプレゼントにするという内容の歌詞である。そして、角松敏生の「Tokyo Tower」(1985年)は輝く夜の都会を見下ろすカップルの営みをけだるく歌ったラブソングだ。
この2人が歌で描き出したのは、都会的な恋愛のシチュエーションである。そのアイテムとして、東京タワーを出現させている。その歌の舞台となる都市は、架空のものであっても許されたはずだが、彼女たちはあえてそこに「東京タワー」という唯一無二の存在の「記号」を置くことで、その舞台を「東京」に固定させた。
フランク永井の「有楽町で逢いましょう」など、東京の地名を明記することで都市の記号性を増すことができた時代は、1950年代の都会派歌謡曲の時代には確かに存在した。だが少なくとも松任谷由実は、ある時期までは「中央自動車道」を「中央フリーウェイ」と「読み替え」たように、歌詞において固有名詞の記号の扱いに敏感な存在だった。その松任谷が、1980年代のこの時期になって、胸を張って東京タワーを歌詞の中に登場させたのは特筆すべきことだ。
この当時からしても、東京タワーはすでに30年近く前の建物であり、意味合いとしても高度経済成長期の遺物として見られていてもおかしくないアイテムだった。だが、松任谷は東京タワーをノスタルジーの文脈では捉えていない。むしろ歌詞中に「東京タワー」の語を用いることで、その都会性を高められると考えたと捉えるべきだろう。
1980年代が始まる時点において、糸井重里(または坂本龍一)は、この街を「東京」ではなく「TOKIO」と記すことで西洋から見た日本という「読み替え」を行う必要があった。だが、そこに端を発する「東京」語りは、1980年代の日本経済の発展を通じて反転した。
日本人が東京という都市を誇らしく思える時代が1980年代だった。日本人は、「TOKIO」という読み替え抜きに、「東京」を受け入れるようになったのだ。そんな1980年代の東京にとって「東京タワー」が重要な役割を果たしていたことも間違いない。
岡崎京子作品における東京タワーの暗喩
なぜ東京タワーは、1980年代に再び東京のシンボルとして重要な役割を果たすようになったのだろうか。その答えを、1980年代半ば~九〇年代前半にかけて活躍した漫画家の岡崎京子が描く東京タワーをヒントとして考察してみたい。岡崎京子は、自分の作品に東京と東京タワーをたくさん登場させた作家の1人だ。
1989(昭和64)年に刊行された『ジオラマボーイ パノラマガール』には、ヒロイン
で高校生のハルコが、小学生ながら小学生買春組織の元締めであるタイラくんに求愛される場面で「東京タワー買ってくれたら信じる」と返す場面がある。この作品では、ラストにも団地のベランダから眺める光景の中に東京タワーが登場する。
本作において、ベランダからの眺めは重要な役割を果たす。団地に住む主人公は、その「人工的」で「鳥瞰的」な風景を「ジオラマ」や「パノラマ」のような現実感のないものとして捉えている。
「こっから下見るとへんな感じ 動いてる車とか人とかオモチャみたい 本物じゃないみたい」
東京タワーは、岡崎作品の中においては、非現実の街を形づくるジオラマの一部である。
1991(平成3)年に刊行された『ハッピィ・ハウス』は、テレビ局のディレクターである父が家族の解散を宣言するところから始まる。主人公の少女るみ子は、大女優である母をも家から追い出してしまう。大きな家で独り暮らしを始めたるみ子だが、家の電話も不通になっていることに気付き、さびしさがこみ上げてくる。そんな状況で、るみ子は部屋を暗くして東京タワーを眺めていた。
「ウチからトーキョータワー見えんのにな」
「まるで世間からきりはなされてるってかんぢ」
『ハッピィ・ハウス』は、目の前に現存する確固たる家族が、実は実態のないふわふわしたものだったということが示されていく物語だ。彼女は、家から東京タワーが見えることを、心地よく思っている。満ち足りた生活を象徴するものなのだろう。だが、家族なしでタワーを見ても、浮かれる気分にはなれない。ここでの東京タワーは、空虚さを浮かび上がらせる道具として描かれていた。
1993年(平成5)に刊行された『東京ガールズブラボー』は、北海道の高校生、金田さかえが親の離婚をきっかけに、母と一緒に憧れの東京に引っ越すという物語である。時代は、1980年代初頭。ニューウェーブ音楽やDCブランドという当時の風俗にはまっているさかえは、「きっとみんなナウナウでプラスチックにオシャレでキメキメなんだわ」と東京の人たちを想像している。
夢のテクノポリス
ヒステリックシティ
繁栄と消費の帝都
ハイウェイはのびる
サブウェイははしる
電車でGO!!
スピードシティ
主人公のさかえは、沢田研二「TOKIO」の中で描かれたような「スーパーシティ」、YMOが示した「テクノポリス」のような未来都市のイメージのままに東京を頭に描いている。だが実際に東京の巣鴨の親戚の家で生活を始めたさかえの周りには、ニューウェーブもナウもなく、現実と想像の東京の違いの大きさに幻滅する。
当初思い描いていた都会の姿とは違ってはいたが、さかえは持ち前の行動力で現実の東京の中に、自分の思い描いた「繁栄と消費の帝都」を見出していく。友だちもでき、ライブハウスやクラブなどに出入りするようになったさかえは、連日の夜遊びをたしなめられ、厳しい祖母の家にあずけられる。再び彼女は、記号としての「東京」から切り離される。
祖母の家での質素な暮らしに耐えられなくなったさかえは、家出を決意。そんな彼女が真っ先に向かったのは、東京タワーだった。
「ふしぎふしぎ東京タワーって みてるだけで元気になっちゃう」
彼女にとって、「繁栄と消費の帝都」の象徴が東京タワーなのだ。
そんなさかえの東京での生活は、あるときに突然終了する。両親が元のさやに収まり、彼女は再び札幌に戻ることになったのだ。東京でまだやりたいことがたくさんあるさかえだが、具体的には自分が東京で何をしたいのかはわかっていない。口をついて出たのは「東京タワーのてっぺんにのぼる」ということ。
「あたしって本当はなにがしたいのかなぁ」
岡崎京子が描いた作品の多くに貫かれているのは、"リアリティの感じられない日常〟という感覚だった。そして、彼女の漫画に描かれる東京タワーは、楽しくて仕方がない街でありながらも、リアリティーの感じられない街「TOKIO」の中心に立っている塔である。