はじめに
「セクハラ」ということばがある。
残念なことに二〇二四年現在、テレビや新聞に「セクハラ」が登場しない日はない。あまりにもよく聞くことばなので、あるのが当たり前だと感じているかもしれない。
しかし、一九八〇年代まで日本には「セクハラ」ということばはなかった。
「セクハラ」ということばがなかったから、セクハラはなかったのだろうか。そう考える人はほとんどいないだろう。むしろ、「セクハラ」ということばが広く使われるようになった結果、セクハラが目に見えるようになったのではないか。
「セクハラ」の例は、ことばには、社会の見方を変化させる力があることを教えてくれる。社会の見方が変われば、社会は変化する。新しいことばが、社会を変化させたのだ。
本書では、このように「ことばが変わったから社会が変わる」という現象に注目したい。
「社会反映論」と「社会構築論」
「ことばの変化」と「社会の変化」の関係については、大きく二つの考え方がある。
ひとつは、「社会が変わったからことばも変わる」という考え方だ。たとえば、コンピューターができたから、「コンピューター」という新しいことばが使われるようになる。
これは「社会反映論」と呼ぶことが出来る。「ことばは社会を反映している」という考え方だ。ことばと社会は別のもので、先に社会が変わってから、それに伴ってことばも変わる。
しかし、この考え方では「セクハラ」の例を説明することが出来ない。第一章で詳しく見るように、「セクハラ」は女性グループの小さな気づきと献身的な行動によって日本に紹介された。先に社会の方に、「セクハラ」を受け入れる変化が起きていたわけではないのだ。むしろ、社会の一部には「セクハラ」を否定する動きすらあった。
もうひとつは、「社会構築論」とも呼べる考え方だ。この考え方を唱えたのが、哲学者のミシェル・フーコーだ。第一章でも見るように、フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。この、「言語」が「社会」を「構築」するという指摘は、物事の見方が百八十度変わることを意味する「コペルニクス的転回」になぞらえて、「言語論的転回」とも呼ばれる。
「セクハラ」の例で言えば、人々が「セクハラ」ということばを使い始めたことで、それまで長いあいだ放置されてきた行為が、被害者を苦しめる犯罪として社会的に重要な概念になった。
社会構築論は、ことばと社会は別々なのではなく、両者は密接に関係しており、社会変化がことばの変化をうながすと同時に、ことばの変化も社会変化をうながすという形で、両者の変化がお互いに影響を与えて、ことばと社会が一緒に変化していくと考える。
ことばが社会を変化させるメカニズム
ことばと社会の関係を考える上で社会構築論は魅力的だ。それは、社会反映論からは生まれない新しい問いを立てることができるようになるからだ。
たとえば「セクハラ」の場合を考えてみよう。社会反映論によれば、「社会のどのような変化がセクハラということばを普及させたのか」という問いが可能だが、先に見たように、これを特定するのは難しい。
一方、社会構築論に立つと「セクハラということばが広く使われるようになった結果、社会はどのように変わったのか」と問うことができる。ことばが社会をどのように変えたのかという問いだ。
読者の多くがご存じのように、「セクハラ」からは「パワハラ」や「アカハラ」などのことばが生まれ、今やこれらのことばなしには社会を理解することができないぐらい、私たちの生活は大きく変化した。
ことばが社会を変える力に注目することで、「パワハラ」や「アカハラ」の登場も含めた、「セクハラ後」の社会をより深く理解することが出来るようになるのだ。
もうひとつ、社会構築論から生まれる新しい問いの例は、「流行語」だ。
流行語は、社会変化の最先端を反映したものとみなされる。その時代を理解するために必要な、文字通りキーワードと言われるのもそのためだ。
若い読者の皆さんは、流行語をつくり出す点では、まさに時代の最先端を走っている。でも、ここでちょっと立ち止まって、流行語とは何なのか、社会の最先端を反映しているだけなのか、最先端でなくなったら忘れられていくだけなのか、少し広い視野から見てみるのもおもしろい。
そのひとつが、社会構築論から導き出される「流行語ということばの変化が、どのように社会を変えているのか」という問いだろう。
たとえば、ちょっと前からよく聞くことばに「女子」がある。本書では、第三章で取り上げている。「女子会」「女子旅」「女子力」にはじまって、「リケジョ」や「歴女」。「四〇代女子」や「オトナ女子」では、少し年齢の高い女性も「女子」と呼ばれている。「女子力」は二〇〇九年に「流行語大賞」にノミネートされ、二〇一〇年には「女子会」が同賞を受賞した。
社会反映論に従えば、どのような社会変化が「女子」を流行らせたのかを問うことになる。「女子会」の流行に関しても、「女性が会食を楽しむ経済力を得たから」などのさまざまな社会変化がその理由として挙げられた。
一方、ことばは社会と互いに影響を与え合って変化していると考える社会構築論に立つと、右の問いに加えて、「「女子」ということばが流行った結果、社会はどのように変わったのか」、また、「「女子」は、どのように社会を変化させたのか」と問うことができる。「女子」を流行させた社会変化と、「女子」が流行った結果起こった社会変化の両方を見渡すことで、ひとつの流行語が引き起こした社会変化をより深く理解することが出来るようになるのだ。
このように本書では、「ことばが変わったから社会が変わる」という視点から、新しいことばの普及や流行語が起こす社会変化に注目することで、ことばが社会を変化させるメカニズムを明らかにしたい。
「言語変化」から「社会言語学的変化」へ
社会とことばの関係はさまざまな分野で研究されているが、本書は「社会言語学」という分野からこの関係を考える。
社会言語学は、その名のとおり、社会とことばの関係を扱う分野なのだが、その中でも、両者の関係をどのように理解するかについて、近年、大きな変革があった。
そのひとつは、これまで「言語変化(language change)」と呼ばれてきた現象を、「社会言語学的変化(sociolinguistic change)」として捉えなおそうという提案だ*1。
「言語変化」は、主に三つの考え方から理解されてきた。
第一に、言語と社会は別のものだと見なされてきた。先に挙げた「先に社会が変わってから、それに伴ってことばも変わる」という考え方に見られる理解だ。
第二に、ことばの発音や単語の形のような形式的な変化だけを「言語変化」とみなす傾向にあった。よく知られている例に「食べられる」を「食べれる」と省略する「ら抜きことば」がある。
「ら抜きことば」には、理由があるとも言われている。「られる」には、「〜される」という〈受け身〉の意味と、「〜できる」という〈可能〉の二つの意味がある。そのため、「食べられる」がどちらの意味か、あいまいな時があるからだ。「ら」を抜けば、「食べられる」は〈受け身〉の意味、「食べれる」は〈可能〉の意味、と区別できるようにる。
第三に、言語変化が社会に与える影響はほとんど問題にされなかった。「ら抜きことば」の場合も、それを正しい言い方として認めるかどうかが議論されることはあっても、「ら抜きことば」が広く用いられることで、社会がどのように変わるのかは問題にされなかった。
ことばの価値や使い方の変化に注目する
一方、「社会言語学的変化」は、次の四つに特徴付けられる。
第一に、言語と社会は密接に関係し合っていて、言語変化と社会変化はお互いに影響し合って起こっていると考える。社会構築主義に基づく考え方だ。
第二に、発音や単語のようなことばの形式だけではなく、(標準語や地域語のような)「言葉づかい」や、(写真やイラスト、動画のような)視覚イメージも「言語」に含める。特に、現代では、視覚イメージが果たす役割が大きい。「言語」の概念を大きくすることで、より多くの社会言語学的変化を見逃さないようにする。
第三に、言語変化の社会的意義に注目する。社会的意義の典型例は、ことばに与えられている〈良い/悪い〉や〈正しい/間違っている〉のような価値や、ことばの使い方に関する規範(ルール)の変化だ。本書では、このような価値やルール、つまり、私たちが日本語に対して持っている意識の変化も取り上げている。
社会的意義に注目するため、たとえ発音や単語などの言語の形は変化していなくても、ことばの価値やことばの使い方のルールが変化していることを重視する。
たとえば、それまでもっぱら標準語で行われていたテレビのニュース番組に地域語が使われるようになったとする。この場合、標準語や地域語で使われる発音や単語などのことばの形式は変化していない。けれども、地域語でニュースが伝えられれば、その地域語の「ニュースでは使えない」という価値が変わり、さらに、ニュース番組というジャンルの「標準語で行わなければならない」という規範も変わる。
第四に、右のニュース番組の例からも分かるように、テレビのようなマスメディアや広告、インターネットやSNSなどのメディアにおけることばの使われ方を重視している。新しいことばや流行語だけでなく、ことばの価値やことばの使い方のルールは、メディアでどのように使われるのか、また、視聴者がメディアのことばをどのように評価し、自分たちでどのように使うのかによって大きく異なってくるからだ。本書でも、若い読者に身近な広告やネットニュース、SNSに書き込まれた意見を積極的に取り上げている。
本書では、社会言語学的変化の観点から、新しいことばの使用や流行語に加えて、ことばに関わる価値やルールの変化が、社会を理解する枠組みや社会変化をうながしている様子を見ていきたい。
社会言語学的変化に関する研究で網羅されているすべての言語現象を取り上げることはできないが、読者の皆さんにとって身近な例を挙げることで、この新しい視点の醍醐味をお伝えしたい。
ことばが変わることにはどの社会でも強い抵抗がある
ここまでは、新しいことばや流行語が社会で使われていく例を見てきた。
一方で、ことばが変わることには、どの社会でも強い抵抗がある。新しいことばを使うことに対して、自覚して抵抗する場合だけでなく、なんとなく使うのに勇気がいるという感覚を持つ人も少なくない。その結果、長いあいだ「使いづらいなあ」と思っていてもなかなか変わらないことばがある。本書では、そのような抵抗感も取り上げている。
たとえば、パートナーをどのように呼ぶかという問題だ。第六章で詳しく見ていくように、特に他人のパートナーをどう呼ぶのか、「奥さん/旦那さん」「妻さん/夫さん」「おつれあい」「パートナーの方」など、さまざまな呼び名のどれを使うか、悩んでいる人が多い。その結果、他の人がどの呼び名を使っているのか知りたいという気持ちがあるためか、パートナーの呼び名に関しては、毎年たくさんのオンラインアンケートが実施されている。
興味深いことに、それらのアンケートに書かれたたくさんの意見からは、私たちが日本語に対して持っている意識が浮き彫りになる。ちょうど、社会言語学的変化の第三の特徴で見た、ことばに与えられている〈良い/悪い〉や〈正しい/間違っている〉のような価値や、ことばの使い方に関するルールが浮き彫りになるのだ。
つまり、「パートナーの呼び名」という小さな言語現象を深掘りすると、私たちが日本語という言語にどのような意識で向き合っているのかが明らかになる。そして、そのような意識が「パートナーの呼び名」の問題がいつまでも解決しない一因であることが見えてくるのだ。
このように、ことばと社会が互いに影響を与えながら変化していく様子について考えることは、新しいことばや流行語が社会に与えるインパクトに気付かせてくれるだけでなく、ことばの変化に躊躇する私たちの意識も明らかにしてくれる。
本書の構成
本書は、大きく三つの部からなる。第一部の「ことばが社会を変える」では、社会を変えたことばの具体例を見ていく。
第一章では、社会を変えたことばの典型例として、「セクハラ」が日本社会に普及する過程を五つの段階に分けて見ていく。どのような人々が奮闘し、どのような妨害があったのか、そして、「セクハラ」は社会の何を変えたのかを明らかにする。さらに、「イケメン」や「DV(ドメスティックバイオレンス:家庭内暴力)」、「買春」や「性加害」などその他のことばも取り上げている。
第二章では、新しいことばを提案する以外の例として、「否定的なことばをあえて使う」と「ことばを増やす」という二つの方法を見ていく。前者の例として、「女」ということばの否定的な意味を取り上げる。後者の例として、セクシュアリティに関する五つの主要な考え方を見ることで、ことばを増やすことが、どのように性の二分法を乗り越える役に立つのか考える。
第二部では、ことばの意味が変化する三つの主要な過程、「意味の拡大」、「意味の規制」、「意味の漂白」を、それぞれの章で取り上げる。
第三章では、まず、「意味の拡大」の例として、「女・女性・婦人・女子」の意味の変化を把握する。次に、流行語が社会の異なる領域をつなげる過程を明らかにする。具体的には、マーケティングと保守運動における「女子」の使われ方を見ることで、この二つの領域がなだらかにつながるという社会変化を確認する。
第四章では、ことばが、既存の考え方を変更しないで済むように、意味をずらしていく「意味の規制」を見る。例として、脱毛広告で用いられている、「GIRLS POWER」や「ガールズパワー」、また、「草食男子」の意味変化を探る。一方で、ことばから社会を改善しようとする女性たちの活動例として、「明日少女隊」の広辞苑キャンペーンを紹介する。
第五章では、ことばの意味の一部がはがされる「意味の漂白」の例として、アメリカの移民や先住民の名前、日本の英語の授業で使われる「イングリッシュネーム」、さらに、中国名の日本語読みなどを取り上げる。また、略語や「バツイチ」、「パパ活」の意味がもたらす変化も考える。
第三部では、多くの人が「変えたい」と考えているのに「変えられない」言語現象の例として、配偶者やパートナーを指す呼び名の問題を取り上げる。この問題の背景には、私たちの日本語に対する「言語イデオロギー(言語意識)」があるからだ。
第六章では、いくつかの調査結果から、パートナーの呼び名問題の核心は、他人のパートナーの呼び方であることを明らかにする。その過程で、多くの話し手が、「「奥さま」や「ご主人さま」は避けたい」という自分の考えよりも、「他人のパートナーは丁寧に呼ぶ」という言葉づかいのルールを優先していることを示す。
第七章では、「おつれあい」や「妻さん/夫さん」、「パートナー」などの主従関係を表さない呼び名がなぜ普及しないのか、その理由を「正しい日本語」を最優先する話し手の言語イデオロギーから探る。「正しい日本語観」の二つの特徴を押さえることで、日本語に対してどのような意識改革ができるのか模索する。
本書が取り上げている例は変化していることばの一部であるが、本書をきっかけに、読者が「ことばと社会は、こんなに密接に関係して変化しているんだ」と実感し、読者自身が使っていることばが、どのように社会を変えているのか、また、なぜことばを変えられないのかに思いをはせていただけたら、これほどうれしいことはない。
*1 Androutsopoulos, Jannis. 2014. Mediatization and sociolinguistic change: Key concepts,research traditions, open issues. In Jannis Androutsopoulos (ed.), Mediatization andSociolinguistic Change, 3‒48. Berlin/Boston: De Gruyter.
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