最後のページに辿り着いた瞬間、読書のほんとうの愉しみがはじまる。『パスティス』を読むとそう思う。本書は先行作品の〈模倣だったりパロディだったり珍解釈だったりする〉十六篇を収めた短篇集だ。もとになった名作は童話から戯曲までバラエティ豊か。未知の作品はもちろん、既読の作品も読みたくなる発見に満ちている。
「夢一夜」はタイトルでわかるとおり夏目漱石『夢十夜』のパロディだ。〈こんな夢を見た〉という書き出しは同じ。語り手の「自分」は自動車に女を一人乗せている。女は自動車に乗る前に鰻の蒲焼をよばれたのに〈蕎麦屋へ行きましょう〉と言う。自動車は〈電子地図〉の声に導かれ、海沿いの道を走る。なかなか蕎麦屋には辿り着かない。〈電子地図〉とはカーナビゲーションシステムのことだが、道案内をするときの合成音声が不条理な夢の世界にぴったり合う。〈深くなる、夜になる、真直になる〉など「夢十夜」の鮮烈な言葉を引用しつつ、車を降りた「自分」に十六文の靴を履かせてユーモアは増量。換骨奪胎の技の見事さに唸ってしまう。
収録作の三分の一以上は日本の近代文学がオマージュ元になっているので、少しずつつながりが感じられるところもおもしろい。例えば「寒山拾得」は、主人公の遭遇した出来事が芥川龍之介の『寒山拾得』に似ているという話。芥川の『寒山拾得』には漱石が護国寺で仁王を刻んでいる運慶を見たと言う話が出てくる。漱石の『夢十夜』には仁王を刻む運慶が登場することを思い出す。「私」と芥川と漱石が見た白昼夢のような光景が重なり合うくだりに奇妙な味わいがある。
「腐心中」は「寒山拾得」つながりで名前が挙がっていた森鷗外の『舞姫』と『普請中』にイマジネーションを得た一篇だ。『舞姫』の主人公の元恋人であるエリスが、何十年も経ってからタブロイド紙のインタビューに答えたという体裁になっている。著者のデビュー作『FUTON』の作中作「蒲団の打ち直し」(田山花袋の『蒲団』を主人公の妻目線で描いた傑作!)を彷彿とさせる書き方だ。エリスは日本で自分を捨てた男に再会したときのことを語るが……。たった一文から男と女のスリリングな駆け引きが浮かび上がる。鷗外のテキストを精読しているからこその大胆な発想に惹きつけられた。エリスの最後の台詞を読むと、題名は「腐・心中」とも解釈できるだろう。
本書で唯一複数の作品を取り上げられている作家は、愛人と心中したという最期が注目を集めがちな太宰治だ。著者が題材に選んだのは太宰作品のなかでも比較的明るくほのぼのとした『満願』と『富嶽百景』。とりわけ後者をもとにした短篇で「私」が太宰の幼少時代を知るたけさんに会ったときのことを回想するシーンがいい。〈太宰はどんな子供でしたか?〉という質問に対して、たけさんの回答は期待はずれだった。ところが、それから長い月日が流れて〈読んだ本と自分の体験が混ざり合わさって作られる記憶のシステムにも慣れ親しんでみると〉たけさんの言葉の捉え方が変わるのだ。それから「私」はフランス人の義兄になんとか富士山を見せようとしたときのことを語り、太宰の『富嶽百景』と自分の体験を混ぜ合わせる。
坪内逍遥の幽霊が『ゴドーを待ちながら』を翻訳したという設定の「ゴドーを待たっしゃれ」が最後を飾るあたりも心にくい。太宰治が『新ハムレット』で〈大時代な、歌舞伎調〉と揶揄した強烈な逍遥文体が、サミュエル・ベケットの有名な戯曲に新たな生命を吹き込んでいる。著者は話が必要とする声を意外なところから持ってくる名演出家でもあるのだ。
取り合わせの妙といえば「Mとマットと幼なじみのトゥー」だけは何も情報を頭に入れずに読んでみてほしい。元ネタが明かされたときの驚きが増すから。どの話も一度読めばそれでおしまいではない。『パスティス』は結末の向こうに広がる世界へ読者を誘う。
文豪たちのあの名作が鮮やかに変身!『文豪たちの友情』の著者が中島京子流パスティーシュ小説のキモを語ります。