■動物と人間のあいだで
―― 穂村さん、特によかった回とかありましたか?
穂村 繰り返しになるけど、全体的に言ってることがころころ変わる、その変わり方が好きかな。たとえば、3話(「北京」)の、アジアがいやだったけど好きになった、と思ったけどやっぱりいやだった、でも日本もアジアだ、みたいな(笑)。さっき言った誕生日の話もそうだし、あと18話(「欠点」)で、「今よりあとに起こることは今のわたしにはまったく関係がなく、あとのわたしが何とか解決するだろうと本気で思っているところがある。一瞬ごとにあたらしいわたしがぽこぽこと生まれ出て、これまでのわたしは死んでゆくけれど、あたらしいわたしも今以外のことの責任を負わないので、今よりまえに起こったことはすぐ忘れてしまう」とあるんだけど、これはつまり動物の生なんだよね。猫があくびをしようと肛門まるだしで歩こうとかわいいのは、前後を気にせずひたすら今を生きているからという気がする。青柳さんもそういうところがあって、でも人間なので、先の引用部に続けて「何かが苦しい、という感触だけが残っている」となって、そのすれすれさが魅力なんだと思う。すごく動物っぽさがあるんだけど、そこから人間になりそうな波動も随所に出ていて、主に外部から困ったことが生じたときに、声が出なくなったり、「わたしってなんだろう」と悩んだりしている。今日さんも「いつまで少女でいるつもり?」って(笑)。
青柳 なんか気がつくといつも怒られています(笑)。
穂村 嘘を書けないんだなというモードと、平気で嘘を書くというモードの切り替えもわかりそうでわからないところがあるよね。あまり中間の状態がなくて、突然大嘘書いてるなというところがある一方で、嘘書けないんだなという感じで本当のことを書いている部分がある。
青柳 中間ってなんですか?(笑)みんな中間なんですか?
穂村 なんか0と100を極端に行き来してる気がする。やっぱり離人症的に「いま、いま、いま」と生きていると、その都度別人みたいな感じになるのかな。たぶんその感覚が「青柳さん」を感じさせる文章になっている。
最初はもっと書き飛ばしたような文章だろうと思っていたけど(笑)、すごく真剣に青柳さんの文章だった。
青柳 そこはちょっと人間が入っちゃったのかも。けっこう書き直したのもあるしね。
穂村 もっとすかすかの文章だった?
青柳 そうですね(笑)。
穂村 そこで人間になるしかないのかどうかという問題はあるよね。文章について言うと、僕は推敲をするわけだけど、推敲って三歩進んで二歩下がるとか三歩進んで四歩下がるようなことで、後者のように推敲する前のほうがよかったということはままあるのね。僕はそれでも推敲をやるしかないという考え方なんですね。つまり、人間になっていくしかないという考えで、そうでないというあり方には疑念を覚えるのね。ただ、それは言語表現だからというのはあって、舞台化が前提の脚本とか誰かが歌う歌詞についてはその限りではないと思う。しかし、印刷のみの言語表現の場合は、ひとは人間になっていくしかない、なぜならば言語そのものがそれを要求する、そこから完全に自由になれるほどの天才は見たことがない。宮澤賢治でも推敲の鬼になってしまう。だから文筆というのはある意味で凡才のやる表現ジャンルなんだよね。青柳さんの文章を読んでいて不安になるのは、青柳さんが舞台の上で日々受ける「おまえは人間にならなくてはいけない」とか「身体があることを思い出せ」とか「いつまで少女でいるつもり」という現実のフィードバックと、それを受け止めるようなはぐらかすような青柳さんの微妙な反応が生々しく伝わってくるからで、そこがこの本の面白いところだよね。

■なぜ沖縄に繰り返し行くのか
―― 文章においても、現実においても、というか、現実がそうだからそういう文章になるという感じで、青柳さんの絶対的に「いま」を生きる姿勢がうかがえた気がするんですけど、そのなかにあって、沖縄へのこだわりはなぜなんでしょうか。
青柳 なんでなんでしょうね。今年も行ったけど、また行くよ。行くとしんどくなるんだけど、行かなければいけないという気持ち。
穂村 なにがしんどくなるの?
青柳 なんでわたしは今ひとりでこんなところに来ているんだろうと。わたしは誰だったっけと思って、急にこわくなることがある。でもそういうこともすぐに忘れちゃうから、また行くんだよね。
穂村 生真面目さ、とも違うんだけど、ときどきそういう特性を感じることがあるよね。急に率先してトレーニングを始めたり物を片付けだしたり。後輩に模範を示すというわけでもないし、あれはなんなの?(笑)
青柳 わたし、そんなことしてるっけ? してるか。単にそう思ったからしてるだけだよ。何も考えてない。
穂村 文章も行動もランダムでありつつ一貫しているんだよなあ。
(2019年6月3日、筑摩書房にて収録)