■「いま」を充実させる無駄
穂村 青柳さんの文章を読むのは初めてだったんだけど、すごくライブっぽさを感じました。「誕生日」という回で、誕生日が好きじゃないということを手を変え品を変え面白く書いていくんだけど、最後の「p.s.」で、本当は誕生日大好きです、とか。そういう裏切りが随所にあって、なんなんだと思うんだけど、それはどっちが嘘とか気が変わったとかではなく、全体として本当なんだろうと。
ふつうの大人はもう少し全体を見通して書いたり行動したりすると思うんだけど、青柳さんの感覚はたとえばパラパラ漫画のように瞬間が過ぎていくうちに全体が動いているかのようで、それは文章に限らず実際の青柳さんにもそういう印象を受ける。
前に、青柳さんと僕で暖炉に火を着けようとしたことがあって、ああだこうだと試行錯誤するんだけど、まったく着かなくて、結局、「ああ、それじゃだめだよ」ってやってきた大人が一瞬で火を着けるのを呆然と見ていたんだけど、僕たちは永遠に火なんて着きやしない本当に見当外れのことしかしてなかった(笑)。じゃあ、その時間は無意味だったかと言うと、後から思い返すとすごく楽しかった気がするわけで、青柳さんの文章を読むとそういう感覚が呼び起こされる。
青柳 無駄なことしか書いてないってこと?(笑)
穂村 散文的には無駄、かな。でも、究極的にはみんな最後は死ぬわけだから、すべてのプロセスは無駄と言えば無駄で、「貯金しよう」とか「辻褄を合わせよう」とするのは、パラパラ漫画的な「いま、いま、いま」の充実を損なうことでもある。青柳さんは借金はしても貯金しないし、文章にしても実物にしてもすごく「いま感」が強いと思う。
青柳 みんな、そうやって生きてないの?
穂村 個人差があるよね。先のことを考えていまをコントロールするひとはいて、だいたい大人になるほどそうなっていく。子どもは「いま」を生きるしかないわけで。
青柳 単にまだ子どもってこと!?
穂村 そうは言わないけど、だからこそ「いま」に異様な充実感が漲っているように見えるんじゃないかな。映画も原理的にはパラパラ漫画なわけだけど、やっぱりその「いま」の充実感が映画を見る快楽として大きい気がする。みんな心の底では、貯金なんかしたくないわけで、そこからの解放感が興奮につながるんじゃないだろうか。
―― パラパラ漫画というのは言い得て妙な気がしますけど、文章に独特なリズム感がありますよね。そのへん、短詩形のプロパーとしてどう思われますか。
穂村 通常の散文の距離感とは違うよね。「口紅」の回の「服たちはわたしの家のクローゼットの中にあるはずなのに、どこか遠い外国の家の三角屋根を思わせる。反射する光が眩しい」という文章で、服が外国の家の三角屋根というのは、すごい飛躍がある。でも次の「反射する光が眩しい」という一文で、詩的に回収される気がする。あと、最初の「声」で、「一緒にがんばって一流の女優さんになろうね、いずみちゃん!」と先生に言われるのに「先生、わたしの名前はいづみです」と返すのも、現実には耳で聞いた時はありえない齟齬なわけで、ルールの逸脱があるんだけど、なぜか納得させられる。
青柳 「一流の女優さんになろうね、いずみちゃん!」というのはじつはメールで言われたんです。
穂村 だから「いずみちゃん」なんだね。でも、メールで言われたとは書いてない。
青柳 「メールで」というのはわたしにとっては必要のないことだったんでしょうね。
PR誌『ちくま』の好評連載であった『いづみさん』(今日マチ子:マンガ、青柳いづみ:文)が5月にめでたく書籍化されました。そこで、連載時から読まれていて、青柳さんやマームとジプシーとのコラボもされている穂村弘さんに、読者代表として、あらためて通して読んだ感想など青柳さんとお話しいただきました。