ちくま文庫

“演技”の解説
獅子文六『沙羅乙女』解説

7月刊行のちくま文庫、13冊目の獅子文六『沙羅乙女』より、女優の安藤玉恵さんの解説を転載いたします。NHK土曜時代ドラマ「悦ちゃん」に出演されたことがご縁で今回、解説文をご執筆いただきました。もし『沙羅乙女』を演じたら? とても素敵な解説文です。


 NHK土曜時代ドラマ『悦ちゃん』に出演し、打ち上げの席で筑摩書房の窪さんとのお喋りが盛り上がり、そんなこんなで今、これを書かせてもらっています。
 役者をやっているからか、物語を読む際に、どの役をやったら楽しいかしらと考えながら読む癖があります。現実的に言えば、今回だと圭介に近寄ってくる庄崎夫人といったところでしょうか。理解者であり尽くしもしたのですが、圭介が亡くなってひとしきり泣いた後に、すぐお金の話をし出すあたり、キャラとして惹かれます。実際そういう人物、思い当たりますし。でもね、二十歳若く、もちょっと美人で骨格がコンパクトだったら、そりゃ町子を演じたい。健気を絵に描いたような女性、圧倒的なヒロインです。町子になるという本気の妄想で、登場人物とどう芝居(関係)していくのかを考えました。
 まず、お父さんとの関係。切っても切れない親子、知り尽くした親子、喧嘩だって慣れたもんです。些細な動作や表情で相手の気持ちを理解します。お父さんが再婚相手のことをまだ町子に隠している時のやりとりなんかは、間を大切にして、コメディタッチに芝居ができそうです。生活のことなど考えず発明に没頭しているお父さんに対する気持ちは、家族という究極の束縛を表現できそう。一方でお父さんが死んだときの涙は、失恋の涙とは違って、悔しいような、圭介の発明家人生を受け入れた結果の諦念であるような、でも娘でいられたことを誇りに思って感謝している涙を流したいと思います。
 そして弟。もうすこし少年でいたいのに、家の事情で大人にならざるを得ない弟、吉郎。町子としては、発明家アーティストのうだつの上がらない、かといって憎めない父を、共通の敵として「困った、困った」と言い合える大切な存在。吉郎との芝居では長い間一緒にいた愛着と、信頼しあっているという空気を作りたい。減らず口をきく弟が、やっぱりお姉さん思いだとわかる瞬間は、素直にその気持を受け止めたいと思います。
 そして塙さん。女・町子の寝ても覚めても感を存分に出したい。惚れるのわかるわ。ルックスは長谷川博己さんみたいな感じよね、きっと。キザな感じも好印象だし、そもそも生まれが良くてお金あるしね、くやしいけど、時折見せる上から目線も許すわ。会話には絶妙な間が必要でしょう。物理的な距離感がそのまま二人の関係を物語りそうだから、そこも意識的に。線路沿いでのキスシーンは、思いっきりロマンティックな照明で美しく演じさせてください。生涯で一番くっきりと焼き付けられたなまめかしい瞬間として。町子との芝居で、塙さんのピュアな可愛らしい部分も露わにできるといいな。残念ながら塙さん、強引な女に弱かった。お母さんも強気の豪傑な女性だし、シャンな令嬢が上手だったというほかない。アムール虎vs.野うさぎ。町子は負けたけど、日出子ももがいてましたね。
 流れのついでに日出子さんとの芝居について考えてみましょう。最初っから敵意むき出しの日出子嬢。彼女だって、自分にないものを持ち合わせている町子は恐ろしいに違いない。日出子さんとのシーンはできるだけ沈黙がいいと思います。向き合って、じっと見つめたりして。気持ちは負けそうでも、ひるまない町子。静粛な時間がお客さんに恐怖を植え付けると思われます。こわいけどやってみたいシーンです。
 それから野村さん。スピンオフなら野村さんを主人公にしたいくらい魅力的な男の人。
ザ・不器用。イノシシ年生まれに違いない、猪突猛進。高倉健さんのイメージです。野村さんは、動物的に面白いから、どうしても観察しちゃって、町子はなかなか自分の恋心には気づけないんだけれど、その素直な動物性に町子も本音をぶつけられるような感じ、野村さんとの芝居はちょっとお姉さんぶって、からかったりしながらコミカルにやってみたい。めいっぱい親しみを込めて。お客さんがほっとするような、みんなが野村を応援するような、そんな空気が出せれば成功だと思います。
 福田のおじいちゃんと庄崎夫人は、見かけも声も特徴的な俳優さんをキャスティングしてもらって、セリフのやり取りを楽しみたい。その中で町子の心の変化だったり、成長を表現できたら面白いだろうな。はぁ。とっても楽しい想像でした。
 獅子文六さんが書く言葉遣いは、生まれも育ちも下町の私からすると耳触りがよく、懐かしくもあります。ニュースで流れる標準語と比べると、しっかりと東京弁です。落語的なリズムが多分にあって読みやすい。それに流行の歌謡曲を聞いている心地よさもあります。これを読んでいた昭和初期の読者も、この軽快でポップな感じに引き付けられていたに違いありません。

 話はがらりと変わりますが、最後に、この物語の幕切れについて書いておきたいです。衝撃でした。そして残酷だと思いました。応召が、ではなく、この結末をもってきたということが、です。一九三八年に書かれたこの作品、第二次世界大戦開戦の一年前です。ラストは「大団円」というタイトルでしたが、たっぷりの皮肉に聞こえるのは敗戦後育ちの私だからでしょうか。序破急を繰り返しながら、数百ページにわたって物語を楽しませてくれていたのに。すっかり三軒茶屋あたりの住人になりきっていたのに。やっと二人の明るい未来が見えてきたのに。このラスト。小説なんか読んでいる場合じゃないよって? ぽんと突き落とされたかのような切なさです。でも、正直に言って、召集令状のもつ意味をこんなに考えたのは初めてです。物語が全部なかったことになる、神様からお呼びがかかったのだから。負けを知らなかった日本の、人気の流行作家だからこそ描ける、その時代のヒリヒリとしたリアルを感じさせてもらいました。次は文六さんが描く戦後を読みたいと思います。

【特設ページ公開中】忘れられた昭和の人気作家・獅子文六の時代がやってきた!

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