ちくま文庫

まさに今届けられるべきもの
源氏鶏太『御身』解説

8月刊行のちくま文庫では4冊目の源氏鶏太作品『御身』より、ミュージシャンで文筆家の寺尾紗穂さんの解説を転載いたします。昭和のど真ん中に活躍した「サラリーマン小説の旗手」源氏鶏太。氏の作品を〈今〉読む意義は――。


  本書の中で、一九八一年生まれの私にとって全く分からなかった言葉は「BG」であった。

「いわゆる紳士淑女の出入りが目立ち、私のような貧しいBGの姿は、見当たらないよう
だ」
「相手は、小沢咲子さんといって、母一人娘一人の貧しいB・Gなんです」
「咲子の服装には、華美なところはすこしもなかった。そこらにありふれたB・Gであっ
た」

 はて、貧乏ガール? と悩みつつ、やがてそれがビジネスガールの略であると気づく。本作『御身』は一九六一年から「婦人公論」に連載されたが、「BG」という名称は東京オリンピックの開催を控えた一九六三年から「OL(オフィスレディ)」にとって代わられてゆく。なんでも、売春婦を意味する「Bar Girl」を連想させるということで、名称一新となったらしい。
 井原あやは「サラリーマン小説」の旗手として知られる源氏鶏太が「BG小説」の書き手でもあったとして、『向日葵娘』や『女性自身』を考察しているが、その特徴として「職場を舞台としながらも、およそ働いている様子は描かれない」点をあげている。さらに一九五八年に刊行された女性誌「女性自身」の「BG専科 まったくあなたの仕事は"単調”ですね」といった記事(一九六〇年八月二十四日)を示し、女性事務職に求められたものは、仕事をこなす能力というよりも女性性であったことを指摘している(「『女性自身』と源氏鶏太―〈ガール〉はいかにして働くか――」「國語と國文學」平成二十九年五月号)。こうした傾向は今日においてもなお存在する「女性は一般職でよい」という社会通念の中にも色濃く残っているといえるだろう。
 本作の主人公矢沢章子も「BG」であるが、サラリーマンの弟が課長から預かった三十万を紛失したことで、その金をなんとしても捻出すべく、電器会社の社長・長谷川に六か月の契約で性を売るという、会社を超えた奇妙な人間関係が展開されていく。読者は、次第に長谷川に惹かれていく章子を眺めながら、六か月の恋人契約の後に、章子がそれまで好意を覚えていた同僚の和気のもとに戻るのか、はたまた長谷川との関係が更新されていくのか、目が離せなくなる。「世間には、同時に二人の男性を相手にしている例が多いそうだが、私にだって、その気になれば出来ない筈はないのである」と、当初勝気に考えたとおりになるには、章子という女は少し純情すぎるのだ。
 女が金や生活のために体を売るというのは古今東西同じだろう。そして社会の近代化が進むほどに、男が女を買うことについて、それは単なる性欲であり、本命の恋人や妻との間にこそ精神的に深いつながりが生まれると信じられてきたとも言えるかもしれない。性の売買は必要悪であるとはしても、汚らわしいことであり、そこに本当の愛は生まれないと多くの人が信じたい。本書の設定で面白いのは、章子が愛する弟の恋人もまた、貧しい生活のために体を売っているということだ。それを知り、章子は何としても彼女と弟を結婚させまいとする。自ら答えの出せていない問題が、大事な弟の恋愛の中にも同じくたち表れてくるのだ。いや、正確にいえば、章子の心の中で愛についての答えは出ていたのだと思う。しかし、章子の思考の中では「体を売る汚らわしさ」をなかなか認められない。
 本作については「恋愛至上主義を批判した」作品という評もあるそうだが、私は寧ろ矢沢章子という個人の意識の葛藤が生き生きと描かれているのを面白く感じた。言うまでもなく、社会常識に基づいた善悪によって物事を見ようとする「思考」と、単なる契約であり体だけの関係といくら思いこもうとしても、抑えがたい愛情が生まれてきてしまう「心」との相克である。源氏は「女が幸せになるため」という文章の中で、こんなことを書いている。

 いつも心を明るい方へ、明るい方へと向けていた場合、しぜんと、あるはなやかさが身についてくるのではあるまいか。(中略)世の中のことは、楽観的に考えていると、不思議にそういうふうになっていく場合が多いようである。(『わが文壇的自叙伝』)

 この楽観主義が源氏の大きな特徴でもある。何せ登場人物たちの出会いのほとんどが「偶然」である。いちいち数えあげることもないだろうが、数えたくなるほどあるのである。もうちょっと人と人を出会わせるためのプロットを練ってもいいようなものだが、源氏の描きたいのは「その先」であったのだろう。自分の小説が後世に残るだろうか、と書いていた源氏の懸念は、ややパターン化されたそうした単純さを自らの弱点と捉えていたからかもしれないが、上の文章を読んでいると、この人生観であればさもありなんと納得してしまう。自分の直感を信じて明るく進む。これは映画化でも成功をおさめたと言われる「青空娘」の主人公小野有子の性質にもぴたりとあてはまる。このようにまっすぐ生きれば自然、運が味方し、運が味方すれば、偶然も頻発するわけである。本作の章子は有子とはまた違ったキャラクターだが、素直さにおいては共通している。「恥も外聞も忘れ」長谷川を愛するからこそ、夜中に章子が一人つぶやく「私の御身……」という言葉に、読者は自ら覚えのある恋心を重ねて、その切実さに涙できるのである。同僚の和気との間で揺れていた章子の心は後半、長谷川への愛を固めてゆく。もはや彼女は「思考」の霧を脱して、あるがままの「心」を生きるのだ。
 最後にまた話を先述のBGについての井原氏の論文に戻してもよいだろうか。この論文の中で彼女は一九六二年の読売新聞記事「新BG読本②」を引いているのだが、ここに紹介されているBG「K子」さんの言葉に私は唸ってしまった。

 この仕事は、熟練もなにもないんだから、まもなく新しい人がすっかり覚えてしまうだろう。そうしたら、私がいままでやってきた三年間の年月に、いったいなんの意味がある
んだろう。

 私は二〇一九年の二月に福島のいわきでまさにこれと同じような言葉を原発労働者の同世代の男性から聞いた。彼は3・11の前から福島原発で働いてきた人だ。しかし、三月で雇い止めになること、二度と原発では働くつもりはないことを教えてくれた。迷いはないようであった。
 社会は源氏鶏太が描いたサラリーマンの時代とは大分変わった。会社が一生面倒をみてくれる、という幻想も若者の間にはすでにない。長年労働力の使い捨てが横行してきた原発労働だけでなく、社会全体に非正規労働者が増え、かつては女性労働者のみが抱えていた問題を多くの男性も抱える世の中になった。加えてAIの普及が進めばさらに職を失う人は増えるとも言われる。足元の現実のまわりをぐるぐると巡りつづける自らの思考にがんじがらめになっていては、不幸になるだけの時代である。多くの人が、古い常識を疑い、自らの幸福とその行路を問い直す時期ではないかと思う。源氏鶏太が描いた時代は過去のものとなったが、彼が作品に込めたメッセージは古びることなく、まさに今届けられるべきもののようにも思えてくる。「なつかしの昭和の明るさ」の中に源氏作品を閉じ込めるのは、いささかもったいない気がしている。

 今”昭和”が新しい! 源氏鶏太の本!

関連書籍

鶏太, 源氏

御身 (ちくま文庫)

筑摩書房

¥858

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

源氏 鶏太

青空娘 (ちくま文庫)

筑摩書房

¥814

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

鶏太, 源氏

家庭の事情 (ちくま文庫)

筑摩書房

¥858

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入