神奈川近代文学館は、夏目漱石、中島敦をはじめとする文学者の資料を収蔵する博物館です。収蔵資料は120万点を超え、その多くが、作家のご遺族から寄贈されたものです。獅子文六旧蔵資料が、夫人の岩田幸子さんから寄贈されたのは、文学館開館の前年、1983年のことでした。文学館開設準備室の職員が、「大磯と赤坂の獅子邸を訪ね、天女のようにたおやかな幸子夫人から資料をいただいた」という話は、今もよく語られる文学館草創期談のひとつで、当館は、代表作「箱根山」「大番」や、「可否道」(コーヒーと恋愛)「ロボッチイヌ」などの原稿、創作ノートやフランス遊学時代の観劇ノート、書簡、旧蔵書など、3450点からなるコレクションを「獅子文六文庫」として一括保存し、開館の年に没後15年を記念して展覧会を開きました。そして、今年2019年、「没後50年獅子文六展」を開催します(*)。
前回の展覧会から流れた30年以上の歳月の中で、獅子作品を取り巻く状況は大きく変わりました。その著作は、一度、書店の棚から姿を消しましたが、今度の展覧会では、近年の復刊により作品に出会った読者の方に、獅子文庫の資料の数々をご覧いただくことができます。昭和レトロの洒落た装丁の初版本や古い写真からは、獅子が生きた時代を、溢れ出る物語を次々に記した原稿や、思いがけない素顔を語る手紙を通して、獅子文六その人の存在を感じていただけることと思います。
神奈川近代文学館が建つ「港の見える丘公園」の周辺には、文学者ゆかりの地がいくつも点在しています。文学館の一番近くに住んだ作家は谷崎潤一郎(文学館から徒歩五分の場所に居住)。一番近くに通勤していたのが中島敦(徒歩10分の距離にある横浜高等女学校に勤務)で、おそらく一番の近距離に生まれたのが獅子文六です。
獅子文六(本名・岩田豊雄)は1893年(明治26)に、今も地名が残る弁天通に生まれました。弁天通は横浜港に沿ってのびる生糸商人の街で、父・岩田茂穂もまた、外国人を相手にシルク製品を販売する岩田商店を営んでいました。茂穂は、獅子が九歳の時に亡くなりますが、慶応義塾大学を中退した獅子が、その遺産により、フランスで二年以上遊学できたほどに、岩田家は裕福な家でした。そして、母・アサジは、日本で初めての本格的西洋花火を作った、横浜の実業家・平山甚太の娘。獅子が「名題の食いしん坊」と評したグルマンでした。この両親のもとで獅子は、当時はまだ、日本人があまり立ち入らなかった中華街に潜入したり、スペイン領事の家にいたコックが、路地裏に開いた店で本格的スペイン料理を食べたりと、明治時代後半の、ハイカラで異国情緒あふれる横浜を存分に味わって育ちました。「本式の洋食や、新式の洋服や、帽子なぞは、東京に探してもなく、横浜へ来なければ、発見できなかった」と、獅子は書いています。
「やっさもっさ」は、1952年の2月から8月まで「毎日新聞」に連載されました。獅子文六は、「てんやわんや」「自由学校」と、それに続くこの作品を、「敗戦の日本を描く三部作シリーズ」と呼び、シリーズ三作目の舞台に故郷・横浜を選びました。
〈やっさもっさ〉という言葉は、大勢の人が集まって大騒ぎをするという意味です。進駐軍と日本人女性の間に生まれた混血児を引き取って育てるため、根岸の丘の上に双葉園という名の孤児院を開き、「慈善婆さん」と呼ばれている福田嘉代。ひょんなことから嘉代の手伝いをして、その有能さから園の運営を任されるはめにおちいった志村亮子。亮子の夫で、敗戦による「慢性虚脱」を病む四方吉。亮子を取り巻く進駐軍のウォーカー中尉、バイヤーのガストン・ドゥヴァル、そして、街の女たち。個性際立つ人たちが巻き起こすダイナミックな群像喜劇は、獅子作品ならではのものですが、随所に戦後の混乱の真っ只中にあった、獅子の故郷の「現実」が描きこまれています。
太平洋戦争末期の1945年5月29日、東京大空襲を上回る数の戦闘機が横浜を襲い、投下された約四十四万個の焼夷弾により、横浜は徹底的に焼き尽くされました。終戦後の8月30日には、厚木の飛行場に降り立ったマッカーサーが横浜に入り、それから7年間、横浜はアメリカの占領下に置かれます。獅子が子ども時代を送った桜木町から関内あたりは、わずかに焼け残った家も壊され、進駐軍の街へとつくりかえられ、馬車道や伊勢佐木町の街角では、G・I(米兵)を相手にする女性が客を引くようになります。これが「やっさもっさ」の背景にある「現実」でした。
「やっさもっさ」の前半部に、横浜から列車に乗った主人公・亮子の、頭上の網棚に置き去られた包みから、黒人と日本人の混血らしい赤ん坊の遺体が発見される、というショッキングな場面が登場します。亮子は警官に、赤ん坊の母親ではないかと疑われますが、実はこれは、「戦争児」と呼ばれた混血の子どもたちのために、孤児院エリザベス・サンダース・ホームを開いた澤田美喜の体験です。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫で、外交官・澤田廉三の妻だった澤田美喜は、この事件に衝撃を受け、一九四八年、私財を投じて、大磯にホームを設立しました。
かねてから戦争児の存在に心を痛めていた獅子は、新聞や雑誌の報道から、自分が住む大磯に、澤田のような人物がいることを知ると、意を決して、設立間もないホームを訪ねました。この日、澤田は不在でしたが、子どもたちを目の当たりにして、「予想以上のショックを受けた。誇張していえば、その日の晩飯が、マズかった。」(『アンデルさんの記』)と述べています。
そして、数年後、この施設のことを小説に取り入れることを決め、再びエリザベス・サンダース・ホームを訪ね、今度は澤田から直接、話を聴きました。
この時のものと思われる取材ノートが、「獅子文六文庫」にあります。表紙に「戦争児」と記された小型のノートには、8頁にわたり、網棚の事件をはじめとする、混血の孤児たちをめぐるエピソードが記されています。ホームに赤ん坊を預けっぱなしだった母親が、養育費を男から強ゆ請すりとるために、子どもを連れ出そうとする話。良家の娘が、世間の目に隠れて山中の温泉で生んだ混血の子を、家族とおぼしき者がホームに連れて来た話などがあり、これらは「やっさもっさ」にそのまま取り入れられています。獅子は、この時の取材を通して、豪快でバイタリティあふれる澤田美喜と親交を結び、澤田廉三、美喜夫妻は、獅子の三度目の結婚の媒酌人となり、松竹映画「やっさもっさ」には、エリザベス・サンダース・ホームの子どもたちが出演しています。
1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効により、7年にわたる占領が終わり、横浜の接収解除が始まります。物語の中でも、横浜から進駐軍が去ってゆくという事態に、進駐軍相手に商売をしていた人びとが動揺する場面が登場しますが、調べてみると、この場面が書かれた連載第90回目が新聞に掲載されたのは、条約が発効した2週間余り後の5月13日で、「やっさもっさ」という作品が、激動の時代の中で、リアルタイムに書かれたことに驚かされます。
獅子は、演劇人としての半生を振り返った『新劇と私』という本の中で、フランスで観た、優れたブールヴァール劇(大衆向けの喜劇)から、「今日を動かしてる今日の人物や社会を、アリアリと描くのでなければ、ほんとの今日の観客というものも、吸引できない」ことを学び、たくさんの喜劇に接した経験が、「後年、私が獅子文六というヘンな筆名で、小説を書き出すようになってから、ずいぶん、役に立ったようである」と述べています。
獅子文庫の資料のひとつに、街の女たちとG・Iの話し言葉を記した藁半紙のメモがあり、こうした資料からは、執筆のために、馬車道あたりの路上で、聞こえてくる声に耳をかたむけ、メモをとる獅子の姿が垣間見えるようです。
接収解除後、横浜をどう発展させて行くのか、という問題は、当時の横浜で最も大きな問題でした。「やっさもっさ」でも、横浜を観光地として復興させるべく、地元の有力者たちが意見を闘わせ、ここから、後半へ向けて物語が大きく動き出します。
その中でスキヤキ・ハウス「フジヤマ」を経営する武智が提案したのは、横浜の一隅にカジノを建設するという、現代の横浜市が表明した、カジノを含むIR(統合型リゾート)誘致計画に通じる案です。しかし、武智の案がひと味違うのは、このカジノには、自国の国民は、絶対に入場させないという点です。金持ちの外国人だけに、金をつかわせる。なぜなら、ギャンブルによって、日本の労働者の血と汗の代償を巻き上げてはならないから……。横浜に生きる人びとの、本当の幸福への願いをこめた、獅子ならではの復興策と言えるのではないでしょうか。
「やっさもっさ」は、傷ついた故郷・横浜への愛惜をこめ、トムのような孤児から武智のような実業家まで、敗戦から立ち上がろうとする横浜の人たちへ、獅子が送ったエールであり、皮肉まじりの表現にすら、その熱い横浜愛を気付かされる作品です。
最後に、「やっさもっさ」に登場する、横浜駅でシュウマイを売り歩く「シュウマイ・ガール」のモデルである崎陽軒の「シウマイ娘」が、松竹の映画化で評判を呼び、明治創業の崎陽軒が、戦後の大躍進を遂げたことを、獅子の横浜愛が現実に実を結んだ話として付け加えておきます。
*「没後50年 獅子文六展」は2019年12月7日~2020年3月8日に開催
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/10489/
筑摩書房 獅子文六特設ページ⇒文六の時代がやってきた!
12月刊行のちくま文庫、獅子文六『やっさもっさ』より、神奈川近代文学館の野見山陽子さんにご執筆いただいた解説を転載します。獅子文六という作家、”横浜”を舞台にした本作を丁寧に解説してくださいました。神奈川近代文学館さんでは「没後50年 獅子文六展」も開催中。本作に関する展示も充実しています。ぜひこの機会に”獅子文六の横浜愛”に触れてみてください。