集合的記憶喪失
「無理が通れば道理が引っ込む」という慣用句がある。「道理にはずれたことが世の中に行われれば、正しいことがなされなくなる」(『大辞林』)という意味だが、確かに昨今の世の中では「道理にはずれたこと」があちらこちらで横行していて、「正しいこと」がどんどんなされなくなっているという印象を受ける。
たとえば二〇一七年前半に話題になった森友学園の用地取得と加計学園の獣医学部新設にまつわる疑惑(俗にいうモリカケ問題)は、今もっておよそ納得のいく形で真相が究明されたとは言いがたい。
また、これにともなって発覚した財務省による資料の隠蔽・改竄問題も、二〇一七年の新語・流行語大賞を受賞するにいたった「忖度」の目に余る蔓延ぶりと想像以上の根深さを端的に象徴するものであった。
さらに、ほとんど「恒例の」と言いたくなるほど定期的に繰り返される政治家たちの問題発言にいたっては、文字通り枚挙にいとまがない。
かつての厚生労働大臣の「女は産む機械」(二〇〇七年)という発言はすでに旧聞に属するが、近年の事例をざっと振り返ってみても、「〔大震災が〕まだ東北でよかった」(二〇一七年)、「〔LGBTの人たちは〕生産性がない」(二〇一八年)、「〔北方領土を取り戻すにはロシアと〕戦争しないとどうしようもない」(二〇一九年)、「〔甚大であった台風の被害が〕まずまずに収まった」(同)等々、およそまともな常識の持主なら口にするはずのない無神経な妄言を数えあげればきりがなく、いちいち思い出すのもむずかしいほどだ。
自分のいい加減さを棚にあげて他人の不見識や不始末をあげつらう趣味はもちあわせていないが、それにしても以上のような現状をまのあたりにすると、この国ではもはや「良識」とか「正義」といった言葉は死語と化してしまったのではないかと、嘆息せずにはいられない。
ところが慣れというのは恐ろしいもので、この種の報道が繰り返されるうちに、私たちの感覚は知らず知らずのうちに麻痺してしまい、「ああ、またか」程度の感想しか抱かなくなっている。本当はずいぶんおかしいことであるはずなのに、それほどおかしいとも思わなくなっている。そして本来なら黙って見過ごすことのできないはずのできごとも、日々の生活に追われているうちに記憶の片隅に追いやられている。
じっさい、最初に挙げたモリカケ問題とそれにともなう財務省の資料隠蔽・改竄問題は、国会でのたび重なる追及や抗議デモなどで一時的な盛り上がりを見せはしたものの、その後の選挙において明確な争点とされることはなく、二〇一九年八月一〇日には大阪地検特捜部が関係者の不起訴処分を決定して中途半端なまま幕引きとなり、そのまま人々の関心から遠ざかりつつあるような雲行きである。
政治家たちによる一連の問題発言についていえば、これらはおそらく失言というよりも本音の不用意な吐露なのであろうから、本気で再発防止をはかるのであれば、彼らの倫理観そのものを矯正すべく根本的な再教育をおこなわなければならないはずだ。
ところが実際は、一時的に湧きあがった批判の声を受けて「誤解を招いたとすれば……」「不快の念を与えたとすれば……」といった仮定法の決まり文句で始まる形ばかりの謝罪が繰り返されるばかりで、真摯な反省がなされた様子は見受けられない。まるで誤解したり不快の念を覚えたりするほうが悪いとでも言わぬばかりの開き直った物言いには、ほとんど救いがたい傲慢さが露呈していると思うのだが、多くの場合は発言者の本音自体にひそむモラルの低さが問われることはなく、単なる慎重さの欠如だけが反省材料であったかのような決着で終わりになる。
これではいつまでたっても、同様の問題発言が後を絶たないだろう。このように、現在の日本ではさまざまな局面で、理不尽としか言いようのないできごとが頻発している。しかしどういうわけか、あらゆることがうやむやなままで放置され、いつのまにか「令和」を寿ぐ大合唱に吞み込まれてしまったという印象がぬぐえない。そして何ごともなかったかのように、淡々と日常が進行していく。あたかも、国民全体が集合的記憶喪失に陥ってしまったかのように。
これはまことに由々しい状況ではなかろうか。
諦念の時代
漠然とではあれ、こうした状況にいらだちを覚えている人はかなりの数にのぼるにちがいない。にもかかわらず、多くの人たちは自分の感覚に明確な言葉を与えることができぬまま、心中にくすぶるもやもやした疑問や憤懣をなだめすかしながら生きている。
確かに、「それはおかしいではないか」とか「どうしてこんなことになるのか」とは思っていても、「ここがこのようにおかしいからいけないのだ」とか、「こういう考え方をするからまちがった結果になるのだ」というふうに筋道を通して説得的に語ることは容易ではない。そのやり方がわからないために、「どうせ言ってもわかってもらえない」、「何も言わずにいるほうが簡単だ」というあきらめの境地に陥り、けっきょく割り切れない思いを抱えたままで黙り込んでしまう人は少なくないように思われる。
その意味で、現代はまさに「諦念の時代」と言うべきかもしれない。
だが、諦念とその結果としての沈黙は、けっきょくのところ「道理にはずれたこと」の 拡大や増殖を助長することにしかならない。困難ではあっても、自分の中に沈澱しているささやかな違和感をすくいあげて言語化すること、体の深いところに鬱積しているわだかまりを明晰な言葉に溶かし込んでやることは、やはり必要な作業だろう。
私はフランス文学研究を専門とする一介の学者にすぎない。そしておもにフランス語教 育を担当する教養学部の教員として、三〇年近く東京大学に勤務してきた。
だいたい文学研究者というのは、好きな本に囲まれて作品を読んだり文章を書いたりしていればそれで満足、世間で起きていることにはあまり関心をもたないケースが多い。もちろんひとりの市民である限り、政治問題や社会問題に無関心であっていいはずはないし、 世事を離れた「象牙の塔」に引きこもって超然と生きていられるはずもないのだが、私自身はどちらかといえば、ごくありふれた穏健な研究者集団に属する人間であり、みずから政治的発言をしたり社会的活動に身を投じたりするタイプではないと自認している。学者であることが免罪符になるなどとはけっして思わないが、できることなら世の中の動きにいちいちわずらわされたくない。社会のできごとに直接関与しなくてすむのであれば、それに越したことはない。少しでも時間があれば、書斎にこもって静かに書物と対話したり文章を書いたりすることに集中していたい。
ところが年齢を重ねるにつれて、そんな私も所属先の学部や大学本部で一定の責任を負わなければならない役職につくことになった。二〇一三年二月半ばからの二年と一か月半は教養学部長(正式には「大学院総合文化研究科長」だが、ここでは一般にわかりやすい言い方をしておく)、そして二〇一五年四月から二〇一九年三月までの四年間は理事・副学長を務めたのだが、任期中は立場上否応なく、数々の面倒な課題に直面せざるをえなかった。そしてその中には、「さすがにこれはおかしい」と思わずにいられないケースがひとつならず含まれていたのである。
それらは主として大学の入試制度や教育制度に関する問題であって、その限りでは国家の命運を左右するほどの一大事というわけではないのかもしれない。しかし短い期間ではあれ、未来を担うべき人材の育成に責任を負う立場に身を置いた人間としては、どれもけっして看過することのできない、それなりに重要なことがらであるように思われた。そしていずれのケースも、大学という場がある種の「危機」に直面していることを実感せずにはいられない問題ばかりであった。
本書は、私が大学人として成り行き上多かれ少なかれコミットすることになったいくつかの事例を通して、およそ教育・研究の場にふさわしからぬ「無理」がしばしば通ってしまうのはなぜなのか、そして「道理を通せば無理が引っ込む」という本来の筋道を取り戻すにはどうすればいいのかを考える試みである。
具体的には、第1章で「秋入学問題」、第2章で「文系学部廃止問題」、第3章で「英語民間試験問題」、第4章で「国語記述式問題」を、それぞれとりあげることにする。時系列的に少しずつずれていたこともあって、これら四つの問題に私が関与してきた立場や度合いは一様ではないが、いずれも社会的に少なからず話題になったケースばかりである。
前半の二章はかならずしも「入試制度改革をめぐる葛藤と迷走」という本書のサブタイトルに直接対応するものではないが、広い意味ではやはり入試と無関係ではない。また、後半の二章でとりあげるのは、まさに入試制度改革そのものをめぐる現在進行形のアクチュアルな問題である。したがって本書が刊行されるころにはすでに状況が変化している可能性も小さくないのだが、事態の推移を追うことが本旨ではなく、あくまでもその背後にある思考のあり方について考察することがねらいなので、もし記述内容が現実の展開に追い越されてしまっている部分があったとしてもご寛恕願いたい。