ちくま新書

高学歴親がハマりやすい!
『中学受験の落とし穴』ためし読み

子どもの将来の幸せどころか、心身の不調など目の前のトラブルが続出……中学受験親子の抱える悩みや問題からは、成長とは正反対の「落とし穴」が見えてきます。注目の発達脳科学者が、中学受験での闇落ちに警鐘を鳴らす『中学受験の落とし穴』から、冒頭部分を試し読みとして公開します。

私はかつて『高学歴親という病』(講談社+α新書)で、学歴を非常に重要視する大卒以上の親御さんによる「心配しすぎる子育て」の問題点について、発達脳科学、小児科学を研究してきた視点から指摘をしました。ありがたいことに多くの方に読まれて大きな反響もいただきました。

高学歴で社会的にも成功している自身の成功体験をもとに、子どもも同じように育ってほしいと思うあまり過干渉や先回りをして、子どもが自立、自走して社会に出ていくのが子育ての本来の目標のはずなのに、逆方向の落とし穴にはまってしまう。脳の発達を学んだ私からすると、「心配」という免罪符を掲げて、子どもたちをどんどん「思考」の発達から遠ざけているように見えます。

高学歴・高収入の親御さんに顕著なのが我が子の早期教育に熱心なことですが、近年東京都をはじめ首都圏で過熱している中学受験戦争も関係しているのではないかと見ています。

このような親御さんたちの理想はきっと、お子さんがレベルの高い中学高校へ進み、休まず元気に登校し、そのまま高い偏差値の大学へ進学して、名の知れた企業に就職することこそが、子育ての〝成功〞というものでしょう。ところが中学受験で失敗したり、志望校に合格してもうまく学校になじめずに不登校になったりすることは決して珍しいことではありません。

にもかかわらず「こんなにお金と時間をかけたのに、なぜ?」と、どこかでつまず
いてしまった我が子を自分の尺度に当てはめ、勝手にがっかりしてしまう親御さんが
増えているように感じます。ここ数年、私の運営する子育て支援事業「子育て科学ア
クシス」への相談が確実に増えているのです。

皆さんは江戸時代の子どもたちがどんなふうに勉強していたか、ご存じでしょうか。当時、日本は世界でも有数の高い識字率を誇る国でした。江戸市中に少なくとも3000か所以上あったと言われる寺子屋(手習所)の教室では、子どもたちが天神机と呼ばれる小さな文机を思い思いの向きに置き、習熟度に合った学習を個々に進めている様子が当時の絵画に描かれています。師匠は机の間を回りながら、それぞれの学習程度に合わせた指導をしていました。子どもが学校に合わせるのではなく、先生が子ども一人ひとりに合わせていたのです。

明治維新以降はこのスタイルの学習は影を潜め、皆さんがよくご存じのような、教室に同じ向きと間隔で並べた机に行儀よく座って一斉に受ける授業が主流になりました。そこでは自然に学力競争が生まれ、子どもたちは純粋に上を目指して切磋琢磨するようになります。優秀な成績はダイレクトに豊かな生活=幸せにつながる、と刷り込まれる一斉教育は、間違いなく戦後の混乱期から日本人を驚異的な速度で復興させた原動力になったと考えられます。

この昭和の「成功体験」があったからこそ、日本は今、空前の中学受験戦争大国になっているのではないかなと私は思います。小さいときから競争意識を植え付けて、少しでも偏差値の高い学校に子どもを入れてあげることが、たぶんきっと、いや絶対彼らの幸せにつながる、と親たちが考えているからこそ、小学校低学年から厳しいノルマを課す塾に子どもを通わせ、クラス編成のトップに上りつめることを目指させるのではないかと思うのです。

でもそれがまさに「昭和の考え方」であるということに、今からの親御さんたちには気づいてほしいなと思います。今、時代は大きく変わってきています。我が国の経済力の衰退。終身雇用制度の揺らぎ。かつてない日本人の長寿化。震災やコロナ禍やそれに伴う働き方の多様性への変化。男女格差の是正。不登校や引きこもりの急激な増加。そして子どもたちの嗜好性の圧倒的な変化。これらから学び取れるのは、必ずしも既成の概念に基づく金銭的・物質的な尺度だけでは人間の豊かさを測れない、ということ。そして、子どもの個性は本当に多様であることを親が理解しなければならないということ。その上で、中学受験という手段の選択について真剣に考えなければならないこと。

ここで断っておきたいのは、私は決して「中学受験反対論者」ではないということです。多様な建学の精神を持つ私立校は、かつて江戸時代に鎖国の中で作り上げた日本独自の高レベルの教育体系の系譜をある意味継ぐものでもあります。むしろ、これからの時代の中で我が子の個性を伸ばしたいと思ったときに、全国一律の教育体系で進める公教育と比較検討するための、一つの選択肢に置くことも重要だと思います。私立校を選択するならば、当然中学受験は必須になります。

しかし、ここで問題になるのは、中学受験のためのあまりにも年少期からの塾通いと詰め込み教育の過熱化現象です。私自身も、そして私の娘も私立中高一貫校卒ですので、中学受験を経験しています。ただし、私も娘も塾通いは一切していません。特に娘が中学受験をする時期には、すでに多くの進学塾が小学校3年生からの入塾を勧め、毎週試験を受けさせてその成績でクラスや席順が変わるような指導方法が「当たり前」になっていました。その環境の中でも、我が家ではあくまで「自分の実力と個性に見合った学校を自分の実力で受ける」ことが大前提だったので、娘は最後まで自宅学習のみで受験しました。合格しなくても必ず公立の中学校には進学できるのだから、と親子ともども安心して取り組みました。

私たち親は、中学受験のための塾通いが子どもの脳の発達に害悪になる可能性があるということをよく知っていたのです。ですから、目の前で煽ってくる受験産業の言葉には一切耳を傾けませんでした。十分な睡眠時間を確保し、毎朝しっかりお腹をすかせて朝ごはんを食べる、笑顔にあふれてイキイキ活発に活動できる脳を保っていくことこそが、小学生の子どもの脳の育ちにとって一番大切なことであることは、発達を科学的に学んだ者からすれば常識です。だから、ほかの子どもよりも模擬試験で高い得点を取ることよりも、偏差値の高い学校への合格可能性ランクを上げることよりも、子どもの思春期、成人期以降の幸せのために「寝かせること」を子育ての第一選択にしました。今、娘を使った壮大な人体実験を経て(笑)、その選択は全く間違っていなかったと確信しています。

先ほども言及しましたが、私が主宰する「子育て科学アクシス」には悩みを抱えた多くの中学受験経験親子が来られます。関わりの中で改善していくのは例外なく、「寝ること・食べること・からだを動かすこと」がしっかりできる脳を取り戻した方たちです。この基本的な生活習慣を中心に、家庭生活を立て直すことによって、心身の健康が維持できます。その好循環を促すことによって、親子関係も改善し、さらに子どもが自ら思考し、将来を見据え、自走して学習するようになるのです。本書で紹介する方法はお金も時間もかかりません。家庭生活をしっかりと意識して行うことだけです。

脳をよい状態に保つには、生活習慣が何よりも大事です。生活リズムを整え、生きるために必要な脳の土台を育ててほしいです。そして、家庭というもっとも小さな社会において、その一員であることの自覚と自信を持たせてあげてください。

本書が皆さんにとって、子どものより良い学習環境を確保し、かつ一生涯の幸せを保証できる家庭生活確立の手引きになれることを願っています。
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​【目次より】  
第1章 受験で壊れる子どもたち
…受験で失敗しても人生終わりじゃない/かけた力とコストで親が落ち込まない/子どもが「目ざめる」タイミングはそれぞれ…
 
第2章 脳の育ちには順番がある
…小学生の子どもの脳の発達段階/子どもの人生を誰がどう選択するのか/勉強は夜ではなく朝やろう/「こころの脳」で自分の思考と感情を整える/「こころの脳」が育たない中学受験とは…  

第3章 家庭でしかできない脳育て
…宿題をやらせるのは親の仕事ではありません/読書感想文は書けなくてもいい?/ゲームと学びを差別しない/就寝時刻だけはゆずれない/「こころの脳」が育てば勉強も伸びる/子どもを信じて論理的に話す…

第4章 子育てのゴールはどこにあるか
…思春期の反抗期は「こころの脳」が育った証/親からの絶対的信頼が強い武器になる/我が子の失敗時こそ、親の正念場/子どもたちのもつ自己解決力/利他思考の子どもたちがつくる未来…

終章 中学受験の「成功」「ざんねん」のリアル――[対談]中曽根陽子氏に聞く
…中学受験というレール/偏差値という偏見/煽る塾、煽られる親/受験と脳の発達段階の関係/受験で折れるか、入学後に折れるか/どこの学校に通うかよりも大事なこと…