ちくま文庫

ブコウスキーの優しさ
チャールズ・ブコウスキー著・柴田元幸訳『パルプ』

 文学にはレイモンド・チャンドラーというジャンルがあると思う。主人公は探偵で、ときに嘘をつき、暴力をふるいながら犯人に迫っていく。すでに中年で、最近だいぶ疲れてきた。もはや恋愛にも酒にも魅力を感じられない。けれども男同士の友情にだけは頑なに忠実でいようとする。彼のハードボイルドな作品から強い影響を受けた作家は数多い。村上春樹なんて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品を書いているくらいだ。そしてチャールズ・ブコウスキーの遺作である本書も例外ではない。
 ブコウスキーと言えば、大恐慌から第二次世界大戦後にかけての自伝的な作品で知られている。『くそったれ! 少年時代』『勝手に生きろ!』『ポスト・オフィス』など、どれも切ない名作揃いだ。だから、チャンドラーの書き換えである『パルプ』は、一見奇妙な作品にも思える。けれどもそこはブコウスキーだ。人間はなぜ生きているのかという、かつてカミュが『異邦人』で追求した主題が極端にユルい、遊びに満ちた文章で綴られていく。しかし、だから『パルプ』がふざけた本だ、とは言えない。なにしろ七十歳を過ぎて、白血病に苦しんでいたブコウスキーが本気で遊んでいるのだから。
 主人公は五十五歳の疲れた探偵ニック・ビレーンだ。もう隠居したいと願いながらも、三度の離婚で金欠の彼には、働き続けるという選択肢しかない。けれども、ビレーンがポンコツ探偵だからだろうか、依頼もおかしなものばかりだ。赤い雀を探してほしい。書店に現れる男が本当にセリーヌなのかどうか知りたい。地球侵略を狙う宇宙人の女を追い払ってほしい。赤い雀なんているわけがないし、『夜の果てへの旅』で知られるセリーヌはとっくに死んでいるはずだ。宇宙人の女だなんて、頭がおかしいのか。たとえ全部が本当だとしても、どうやって解決するんだ。だがビレーンはこうした謎に果敢に立ち向かう。
 実は赤い雀というのは、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』にすでに登場している。頭がバラ色の雀たちが道端で何かをつついているシーンがあるのだ。だがそのパロディたる『パルプ』に出てくる雀は一味違う。巨大で、全身が輝き、くちばしの中では黄色い渦が回転しているのだから。他にも、ビレーンの依頼人である死神は「死の貴婦人」という名前で、ものすごくいい女として登場するし、宇宙人の女とビレーンが熱いキスを交わすシーンもある。まさにタイトルである『パルプ』にふさわしく、かつてパルプ雑誌を賑わしたハードボイルド、SF、ロマンスなどの多様なジャンルが混ぜあわされているのだ。それでも一つの作品として楽しく読めるのは、文章のトーンとビレーンの人柄にちゃんと一貫性があるからだろう。
 ブコウスキーの他の作品への言及もファンには嬉しい。郵便局員だった彼の分身として他の作品に登場するチナスキーが新しい郵便秤を自慢するシーンがあるし、何度も回想される父親は、『くそったれ! 少年時代』に出てくる父親と同じように、お前なんか落伍者になるに違いない、と呪いの言葉を吐く。女と言い合いになるところもいかにもブコウスキーだ。いずれ死ぬと決まっている以上、人生には絶望しかない。それでも、人を楽しませることはできる。人に喜びを与えることはできる。こうした、言っている内容とやっていることのギャップがブコウスキー作品の魅力だろう。
 「俺は安くないぜ」/「いくらだ?」/「一時間六ドル」/「そんなに高いとは思えんが」(49頁)のような、依頼人とのずっこけるようなやりとりが愛おしい。こんな会話をタイプしながら、ブコウスキーは厳めしい顔に微笑みを浮かべていたに違いない。暗闇の中でもがいているビレーンの人生は絶望的だ。だが本書を読み終えた読者の心は明るい。それは、ブコウスキーの人間を見る目の優しさが読者にも伝わってくるからだろう。長い時を超えて復活した本書は確かに読まれる価値がある。

(とこう・こうじ 翻訳家)

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